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20_ミュージカル映画2本「アニー」「ピッチパーフェクト」

どうもMaximoNelson49です。「アニー」と「ピッチパーフェクト」を観たよ。

ピッチ・パーフェクト [Blu-ray]

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あらすじはそれぞれ、

アニー

ニューヨークの市長選挙に出ている主人公は、支持率を伸ばすために一時的に孤児のアニーをひきとる。思惑通り支持率は伸びたが、アニーとかかわるなかで、主人公は大切なものに気がついていく。

ピッチパーフェクト

作曲家になる夢を持つ主人公は、一年間大学で過ごさなければ支援しないと父親から言われ大学にはいる。そこで誘われたアカペラサークルに入り、愉快な仲間たちと一年を過ごす。

今回のエントリでは、このふたつの映画を比較する。おそらくなのだけど、ミュージカル映画って歌ったりがメインで、あんまりストーリーで凝らない。それ故に、どこまで書けば観客はストーリーが存在すると感じて満足してくれるか、が分かると思う。その境界線を探る意図で、2本用意している。

所感としては、キャラがよくってストーリーも見てられるのが「アニー」、この映画はダメだな!というのが「ピッチパーフェクト」だ。

アニーとピッチパーフェクトの違い

面白いなーとつまんねーなーの境目にあったのがこの2本。この2本はわりと似ている。物語を推進するキャラクターが多く、コメディタッチの作品だ。パターンとしては、魅力的だが欠点を持つキャラクターたちが、その欠点を克服しほっこり幸せになる、みたいな話になる。
コメディタッチの作品で重要なのは、まず読者に登場人物を好きになってもらうことだ。車に轢かれそうな猫を助けて、いい奴だなあ、と思わせるなど。キャラクターたちは魅力的で、そして同時に、「欠点」をも持つ存在でなければならない。
(なお、欠点を用意するのは単にストーリーの都合だ。ハウトゥ的に「欠点がないキャラには親近感が覚えられない」などと余所からとってきた言葉をまるで自分の言葉のように言う気はない。)

そういう意味で、アニーのほとんど主人公であるオリバー・ウォーバックスや、ハニガンなどはかなり良かった。最初は嫌なやつだが、なんとなく憎めなくて、最後はいい奴だなと思える。納得感がある。

一方、ピッチパーフェクトはその点がかなり厳しい。登場人物たちには変化がないか、もしくは根拠なく変化する。
小声でしか話さなかったアジア人が大会ではボイスパーカッションを披露し活躍する。
こういうストーリーが存在するのだが、何故小声でしか話さないのか、何故ボイスパーカッションが上達したのかはかなり謎だ。小声はギャグとして描かれているようでもあるが、アカペラサークルにいる以上、読者はその小声を解決されるべき問題と判断する。実際ストーリー上でも、小声だけれどボイパが出来るとのオチがつくわけだが、そこへの繋がりが雑なのだ。途中でボイパの出来る男と懇ろになっている描写があったのでそれがボイパ習得の理由なのだろうが、何よりこのストーリーにかけているのは小声ちゃん自身が小声に問題意識を持っておらず、小声だけれど他で頑張る、的な欲求もなにもないことである。大切なのは欲求だ。欲求さえあれば、仮にボイパの練習など、なんの努力もしていないけれど彼に教わったら謎の才能が開花して習得しました! というオチでもある程度の納得がいくはずだ(「ワンチャンス」(2013,英)にはそういうシーンがいくつか。)

他のキャラクターに関しても、とにかくピッチパーフェクトには問題をとらえ欲求する、という要素が少なすぎる。主人公にしても欲求が少なく、物語の開始に夢を語ってくれたのはいいものの、なぜか早々にそんな夢などどうでも良くなり、目的の分からないアカペラサークルに参加する。そういう姿勢は非常に大学生らしいし、夢や成功がなくとも友人がいれば人生は楽しい的な主旨なのかもしれないが、そうであるなら作りが雑すぎる。作者はストーリーを消化する量が足りていない。

ひとしきりピッチパーフェクトのことはディスれたと思う。問題意識と欲求あるキャラクター作りは、興行映画においてはある程度前提であり、その点でピッチパーフェクトは見ていられない映画だった。

悪役のいない「アニー」

前述だが、アニーの登場人物は、本当にみな親しみが持てる。悪役の男にしても、馬鹿なキャラクターという感じで、憎みきれない。なぜ憎みきれないキャラクターが作れるのかは、キャラクター論の場に譲るとする。キャラクター的にはとてもよかったアニーだが、ひとつ問題を挙げるとすると、クライマックスシーンでストーリーが若干ぐだっていることだ。
アニーのクライマックスがどうなるのかというと、
アニーの偽物の両親が現れ、ウォーバックスとアニーは仮の別れを経験する。
ここではウォーバックスの選挙コーディネーター(?)が、支持率を伸ばすための最後の策として、アニーと偽両親との再会の場を作り出す。社会的な成功(選挙での勝利)か家庭(アニー)かという二者択一の命題が描かれており、選挙コーディネーターはアニーやウォーバックスの敵となる。

この選挙コーディネーターだが、いまいち敵として魅力にかけるというか、障壁になりきれていない。それ故に後半はヌルいストーリーになったし、主人公サイドの超えなければならない壁としては、クライマックスのカーチェイスだけだ。それも、主人公はヘリを持ち、追う相手はボロい車である。

このように、主人公たちは敵なしなのだ。主人公にしても、すでに大きな権力は握っているし、対立するに相応しい悪役はストーリー上存在しない。

そして恐らく、アニーの後半がぐだった理由は、この悪役の不在である。

悪役不在とストーリーの停滞

アニーの後半がぐだったことと、悪役がいないことは非常に密接だ。ストーリーの後半は物語の緊張が高まる。そこで大きな役割を果たすのは、強い敵キャラである。キャラでなくてもいいが、障壁がなければ、ストーリーをまとめあげる力にはならない。

ではここで、アニーのクライマックス直前までのストーリーを整理し、そのストーリーから描き得る悪役像を確認したい。
トーリーは大抵、ふたつの筋を持つ。それは内的なものと外的なものだ。内的なものは主人公の持つ性格や欲求に関わるもの、外的なものは現実世界で結果として表出するもの。
アニーの内的なストーリーを端的に言えば、
ウォーバックスが新しい自分を得る。
というものだ。具体的には、市長選に出、権力志向の強く、潔癖症で冷徹なキャラクターから、孤児を受け入れ温かみのあるキャラクターに変化する。
悪役・敵キャラとは既存の世界観の象徴であり、変化を妨げる存在だ。そのため、アニーにおける敵キャラは市長選に挑み権力へと向かう存在、つまりはかつての自分や、選挙コーディネーターとなる。

次に外的なストーリーを整理すると、
ウォーバックスが選挙で勝利する。
トーリーの開始当初、支持率の低迷が課題として挙げられていた。それゆえクライマックス直前までは、それを解決し、勝利することが外的なストーリーだと思われていたはずだ(実際はウォーバックスが選挙を辞退する)。
こちらでは、勝利の妨げになるものが悪役・敵キャラとなる。対立候補や、仕事を邪魔するアニーだ。

こう整理すると分かるが、アニーの内的なストーリーと外的なストーリーは必ずしも一致しない。むしろ、内的なストーリーが解決されるにつれ、ウォーバックスは新しい価値観に気がつき、外的な勝利から遠ざかっていく。

ここがアニーのストーリーの難しいところだ。オーソドックスなストーリーでは、内的なストーリーと外的なストーリーは一致し、主人公の内的な問題が解決されると、同時に外的な問題も解決される。
適当な例を作ると、
主人公は厳しいコーチの指導のもと、水泳の世界大会に向けて努力をしている。当初はコーチと分かり合えずぶつかってばかりだったが、次第に理解しあい、大会での勝利を得る。
コーチと分かり合えないのは内的なストーリー、世界大会は外的なストーリーだ。内的なストーリーにおける敵キャラは理解し合えないことであり、外的なストーリーの敵キャラは世界大会でのライバルたちだ。ふたつの敵キャラは、重ね合わせて同時に打ち倒すことができる。

だがアニーはそれができない。ストーリー開始当初の外的問題を解決することは、内的問題において敗北することだ。そこがねじれている。

アニーパターンの具体的な解決方法

ここまでで、ストーリーと敵キャラの関係を述べた。まとめると、
  • 外的問題と内的問題両方において負の象徴となり、彼を倒すことが外的問題・内的問題の解決になるパターン。
  • 内的問題においては負の象徴だが外的問題においては正の象徴となり、彼を倒すことは内的問題の解決、外的問題の敗北を意味するパターン。

となる(たぶん他にもある)。

前者のオーソドックスなパターンはすでに述べたので、アニーパターンの例も出しておくと、

主人公はコーチの非人間的な指導のもと、水泳の世界大会での優勝を目指していた。しかし主人公は世界大会の直前にヒロインと恋におちる。主人公は水泳での成功だけが人生ではないと知り、ヒロインとの人生を選ぶ。

こんな感じだ(あんまり納得いかないと思う)。

このストーリーでは、コーチ的な考えとヒロイン的な考えを比較し、ヒロイン的な考えが正しいと言えなければならない。そして欲を言えば、外的問題が空中分解しているのは事実なので、なんらかの形で外的問題の解消をはかれると良い。その方法をいくつか提示する。

解消法1,別ルートをとる。

上の例で例えると、水泳での成功は正しいが、コーチ的な考えは間違っているとするやり方だ。コーチ的な考えは単なる方法であり、別のルートから外的問題の解消を目指す。

主人公はコーチの厳しい指導のもと、水泳の世界大会での優勝を目指していた。主人公の父も水泳選手であり、コーチはそのチームメイト。父はかつて大会で失敗し、泳ぐのを止めていた。以降酒浸りの父のようにはなりたくないと、コーチを信じ練習に励んでいる。しかし主人公は世界大会への選考会を目の前に、スランプに陥ってしまう。苦しい期間、ある女性を助け、また恋におちる。ヒロインとの交流を経て、主人公は次第に父との関係を修復させ、父のアドバイスにより代表選手に選ばれる。しかしその泳ぎを見たコーチに感づかれ、それを厳しく諌められる。再びコーチの元に戻り練習に励むが、一向に成果が上がらない。そのとき主人公は、コーチの過去の不正に気づいてしまう。父が世界大会で失敗したのはコーチのせいだった。主人公はコーチの不正をただし、父とともに世界大会で勝利を掴む。

ここでは第2のコーチ<父親>が出てきて別ルートを示す。同時にコーチの考え方も否定し、コーチを敵キャラにしたてあげて倒すこともできる。まあよくあるやり方だ。

解消法2.論点を高次に移す。
トーリーで示される外的問題を、より高次なものに高める、という解消法。アニーはこれをやろうとしていて失敗している。アニーは市長選で勝つことが外的問題であったが、最終的に主人公は孤児のため(街のため)に動いている。つまり、市長選は街に貢献するための手段にすぎず、本来の目的である「街のために」は果たされているとするものだ。これも別ルートから外的問題を解決するのだが、同時に外的問題自体すり替えられているという点で注意が必要である。アニーの例なら、本来市長選に勝ち権力を手にすることが目的だったが、それがすり替えられ孤児やアニーのためになっている。このとき、外的問題が変更になったことを読者と合意しなければ、クライマックスに納得してもらえない。どこかで孤児のために生きるべきだという伏線を引いておけばよい。


アニーの作品意図

ここまでで、アニーがストーリー上どんな難点を抱えていたのか、そしてその難点を解消するためにどんな工夫がされているのかまとめた。アニーはウォーバックスの抱えた欠点(潔癖で冷徹)を解消しようとすると、映画開始当初の目的(市長選での勝利)を手放さなければならなくなる。そのため、目的をより高度なレベル(愛する人のため、街のため)にすり替え、オチをつけようとしている。映画のラストに描かれる識字院のくだりはかなり重要なポイントだったのだ。

識字院に至るまでを、もう少しはっきり問題意識として取り上げて、読者に同期させられれば、ラストにも納得いったのではなかろうかと思う。

また、あえて触れなかったけど、アニーは憎めないキャラクター、悪役の条件を学ぶ上でも勉強になると思う。ここら辺はまた別の機会におさえたい。

今回は以上です。


以降メモ。

・ストーリーのために欠点を持たなければならない、とはどういうことか。

・成長しなくてもよいキャラクターとは? ストーリーにかかわらない? 例えばアニーの、部屋のこどもたち。敵キャラ。何か勝利する側の人間は変化する? まあ物語の論理として、その世界のルールに従った人間が勝てるべき、勝つひとは、理由として従っているべき。

・内的問題を抱えた頃の外的な目標、なぜ内的問題が解決されても外的な目標を解決しなきゃならんのか。

・ヒロインと仲良くなるのは川にながされてるヒロインの犬を救ったから。その犬はかつて父親との思い出になってる犬種。