親です。

読んだ本とかについて書いてます

解について

どうも、MaximoNelson49です。
今回はオチについて考える。

オチ。

唐突に一般論の話をするが、小説や物語全般において、オチというのはまあ重視されるものだと思う。というのは、物語が最もインパクトを持つのがオチの部分だから。これは直感的にいってもあんまり反論のないところだと思う。
で、一方で僕はあまりオチを重視して来なかったというか、話題にしてない。むしろ話題にしてきたのは「問い」の部分だ。何故かというと、それは、オチが「問い」に対する「解」であるからだ。つまり、オチを規定するのは「問い」であり、良い「問い」からしか良い「解(オチ)」は出てこないと考えているからだ。正直、「解」について考えるより、「問い」について考える方が魅力的だった。
ただ、最近なんだか「解」についても考えた方がいいんじゃないかな? という気持ちになってきており、そのためこのエントリーを立てて考えることにした。
これが、オチについて考える経緯だ。

オチとは。

では、オチとはなにか。この問題だが、まあわりと答えられると思う。ストーリーに決着をつけるエピソードであり、それによって問題は解決し、不安定状況は解消される。
主人公は、身に覚えのない罪によって投獄される。獄中から身の解放を訴え続けた彼は、投獄の裏に隠された真実を見抜き、ついに無罪放免となる。

これだと、無罪放免がオチ。「身に覚えのない罪によって投獄」がこのストーリーの不安定状況であり、それを解消するのがオチだ。

またこのとき「投獄の裏に隠された真実を見抜き」をオチに含めるという意見もあるかと思う。それは「身に覚えのない罪によって投獄」のうち、「身に覚えのない」という部分に問いをフォーカスさせたときのオチと言える。そういう場合、例えば以下のようなストーリーだと、オチが弱いとされる。

主人公は身に覚えのない罪によって投獄される。獄中から身の解放を訴え続けた彼は、折よく恩赦によって解放される。

ここでは投獄の理由が分からないままに、恩赦によって解放されている。理不尽な投獄という謎は解かれず、不満が残る。これではいけない。

以上のケースで、ふたつのことが言える。

  • オチは、問いに対して適切なものでなければならない。
  • (翻って)問いの範囲設定を明示的にしておかないと、オチへの不満が出る。
そしてここに、わりと肌感覚な話だが、ひとつ付け加えたい。 
  • オチには驚きが欲しい。

または、なにかを悟らせるようなものでなくてはならない。たとえば、新しいなにかを理解するとか。認識を更新されるようなものだとか。

人間がなにかを理解する、ということ。

ちょうど手元に「理解する」ということについて面白い文章があったのでそれを引用する。安宅和人さんの『イシューから始めよ』には、以下のようなことが書いてある。

深い仮説を持つための2つめの定石は「新しい構造」で世の中を説明できないかと考えることだ。どういうことか? 人は見慣れたものに対して、これまでにない理解を得ると真に大きな衝撃を感じるものだ。そのひとつのやり方が先ほどの「常識の否定」だが、もうひとつのやり方が検討の対象を「新しい構造」で説明することだ。
「人が何かを理解する」というのは、「2つ以上の既知の情報に新しいつながりを発見する」ことだと言い換えられる。この構造的な理解には4つのパターンが存在する。簡単に説明しておこう。
⚫共通性の発見[…]⚫関係性の発見[…]⚫グルーピングの発見[…]⚫ルールの発見
これら4つの視点から、物事を理解させ、オチとする方法がありそうだ。
例えば「共通性の発見」はよくあるパターンだろう。伏線を張って、過去の事例が今回でも起きる、というふうに解を出すなど。
ただ、他の点に関してはあんまりピンとこない。この考え方を小説に転用するのなら、まず仕事などの場面で扱えるようになった上で、小説へ持ってくるのが望ましいように思える。または、小説内で行っていたオチの付け方が、イシューからはじめよのこれだ、というふうに「共通性」を「発見」することができればよい。

また、理解はあくまでもオチの一要素である。オチは解であり、そこに理解や驚きが付随するとよりよいものになる、という話である。



思い付いたアイデア

・見慣れた常識を小説内でつくり、それを壊す。時計塔があり、それの意味が更新されるなど。
・貰い物で気まずいの気持ち