絶望と責任について
どうもmaximonelson49です。今回は絶望と責任について、書くよ。(若干マッチョな話です)
仕事ができない話
のっけからこんなんで恐縮なのだが、僕は仕事ができない。どういうことかというと、僕はSEやっているのだけど、プログラミングがまあ嫌いだ。元々文系の学部を出ている人間だし、なんかもう、プログラミングするって発想がもう頭にない。
ただまあ、嫌い嫌いといっても僕はSEだし、働いているのは金融系の現場だ。一般に金融系の現場は忙しいと言われていて、沢山プログラミングしなきゃならない。
特に去年の暮れは繁忙度が高く、1日16時間くらい働くのが続いた。(朝7時から夜11時まで働いていたので、長時間労働のことを「セブンイレブンで働く」と冗談にしていた。)
まあ、日に16時間特にやりたくない仕事をするってのは、あんまり健康に良くなさそうだ。かつ僕はメンタルの弱い人間だし、まあそりゃ心身の状態を悪くする。具体的には、以下のような症状が出た。
- 日中冷や汗が出る
- 顔がほてる
- 涙が出てくる
- その他メンタル的な症状
んで、この中でとりわけ辛かったのがメンタル的な症状だ。パニック状態に入ることがたびたびあり、パニックになったが最後何も考えられない、それが辛かった。
「パニック」と言うと医学的なアレと考える方もいるかと思うが、そういう医師の診断がおりたものではない。じゃあどんな状態なの、っていうと、目の前のタスクを解消できない、と思ってしまい、仕事をしようとしても、全く頭に入らなくなってしまう、そんな状態。作業が終わらなくて、どうしようどうしようと慌てて、不安なだけで、ひたすら資料をめくったりし続け、何もできなくなってしまう。
次第に僕は、何故自分はこんなにパニックになるのかということを考えて、精神病だった祖父(血縁関係にはない)のことを思い出して、だから自分は精神病ぽいんだとか、自分もそのうち精神を病んでああなるんだとか、仕事中に考えていた。自分は先祖代々の精神病で、それはもう変えようもなくて、だから今パニックになって仕事が手につかなくなってしまっている。
つまるところ、僕はパニックになりながら、「自分にはこの現実をどうすることもできない」という絶望感を抱いていた。
この「どうすることもできない」って感覚が、いわゆる絶望感なんだな、と今になって思う。
絶望のメリット
ただ、今こうして時間をおいて振り返ると、辛かったあのパニックや絶望感にもメリットがあったな、と思うところがある。
何かっていうと、絶望している間にかぎり、僕はパニックを理由にタスクをこなす責任から逃れられた。パニックになっちゃってるんだから、できなくてもしょうがないよね? と思えたのだ。まあ客観的には全然逃れられていないのだが、少なくとも主観的には、できなくてもいいやと思えた。
僕はパニックになっている間ずっと、自分は頭がおかしいからしょうがないとか、祖父も精神病だとか、そういう、自分のメンタルが弱い要因を考えては、自分がパニックになってるのは「どうしようもないもの」「動かしようのないもの」とし、故に許され、責任から解放されうるのだとしていた。
これは「自分が仕事を終えられないのはパニックによるものであり、そのパニックは自分が過去に受けた仕打ちからくるものである。私は被害者であり、このものごとの責任は加害してきた他者にある。私は許されるべきだ」ということだ。
まとめよう。
僕は出来ないこと(仕事)にぶつかる度、パニックを起こした。そのパニックは、僕の祖父が精神病だったり、そんな祖父と幼少期を共にした経験からくるものなのだと考えた。ただ、パニックを起こすことで僕は外部に加害者を措定し「私は被害者である。故に仕事が出来ないのはしょうがない。」と考えることができた。そうして、主観的な面で責任を逃れた。
自分には過去に動かしようのないもの(祖父)があるから、この状況をどうすることもできないのだと絶望していた。
僕は、現実に対応する責任から逃れるために、過去に原因を用意して絶望したのだ。
(さて、下記マッチョなので注意。)
絶望と責任のトレードオフ
ここまででは、僕のパニック、そしてその真の狙いを書いた。というのも、僕は責任から逃れるために絶望していた。
そしてこのときある推測(思いつき)が可能である。それはつまり、『責任を逃れるために絶望するなら、その逆もまた然りであり、つまり絶望と責任はトレードオフなんじゃないか?』 ということだ。
もう少し詳しく書く。
絶望することで責任を負わずに済む。これは逆もまた然りで、責任を負って現実に対応すれば、絶望せずに済むということでもある。「僕にはこの現実をどうすることもできない」というのが絶望なら、責任をとって「この現実をどうにか」しようとすれば、絶望しない。
つまり、絶望と責任はトレードオフなのではないか。過去に絶望することで現実の責任から逃れることができ、逆に責任をとって現実に対応することで私たちは動かしようのないことに対して絶望せずに済むのではないか。
(下記12/23追記)
ここ、責任についての補足が必要だ。僕の言う責任と、世間の言う責任は、たぶん意味合いが違う。世間的には「やりたくないことだけどそれはしょうがないのだと諦めて引き受けること」くらいのものだと思うが、僕が言いたいのは、自分の人生に対する責任のことだ。僕は僕の人生について、僕自身を幸福にする権利を持っており、そして自分自身を幸福にする責任は僕だけが持っている。自分に対して責任を追うのは僕だけなのだから、その責任を果たすことはとても正当な権利なのだ。だから、自分の人生に対して責任を放棄するような諦念を、あなたは受け入れなくても良い。
だから、そうか、『絶望と責任のトレードオフ』とは、『他人の責任から逃れるために絶望した僕は、その絶望から逃れるために自分の人生に対して責任をとる』ってことなのだ。
(追記おわり)
(※この「責任をとる」は正直マッチョな考え方なので、この投稿の最後に補足しておきたい。)
最後に
以上のように、絶望と責任はトレードオフなものなんじゃないかな? というのが今回の趣旨だ。以前の僕はよく絶望していたし、それによって責任を逃れようとしていた。ただその一方で、責任をとることで絶望から逃れることも、できるだろうって話だ。
こういうことを考えられるようになってから、まあ実際、僕は仕事でパニックになることがかなり減った。つーか最近は無くなった。仕事がきついときに一人でパニクらず、相談するとか、断るとか、そういうことができるようになった。
まあこれで投稿のメインどころは終わりで、良かったねーという感じである。ただまあ非常にバツが悪いのだが、僕はこの投稿の本質的な問題点について答えていない。
それは『かつてパニックになっていた頃の自分がこれを読んで救われるか?』という問題だ。たぶん救われないし、このマッチョな論に、だから自分はダメなのだとか、そんなこと言われたって無理なものは無理だ、としか思わないだろう。僕の言っている『絶望と責任のトレードオフ』的な態度とは、絶望か責任か、ということに対して“僕が”選択可能であるということであり、かつてそれを選択できなかった(絶望するしかなかった)自分には全然通じない論なのだ。『絶望と責任のトレードオフ』という態度を一般のものとして提出する以上、むしろここで本当に考えなきゃいけないのは、その選択の不可を乗り越える一般的な方法だ。
ただ残念なことに、そこまでは考えられていないのが現状である。なので、僕個人が絶望のかわりに責任を負うことにしたきっかけ的なものを書いておいて、とりあえずこの投稿を終える。
なぜ責任をとることにしたのか? というと、それは結局絶望してるのが辛かったからだ。
自分は常に被害者で、自分の人生を他人に阻害され続けて、どうすることも出来ない、人生はこんなにも不自由だ、そうやってずっと被害者でいることがアホらしくなった。かわいそうで人生台無しにされた被害者ではいたくなかった。
自分の人生は自分で勝手にしたいし、そして人間にはそれが許されるべきだから、自分の現実に対して責任をとることにした。
なので、どうしたら現実を変えられるのか考えて、対処していった。
さて、それでは本当に最後に、いくつか書きそびれたこととかを以下に列挙して、終わる。
・現実に責任をとる、という言葉についてだが、これは必ずしも困難に立ち向かうということではない。自分の人生を被害者で終わらせないために、したくない困難ならさっさと尻尾巻いて逃げることも含めた、自分の人生への責任のことを言ってる。ただ、本当に鬱々としているときって大概、逃げることすら難しいものだ。
・絶望のメリット、についてだが、『責任から逃れるために絶望する』というと大げさなものでなくても、例えば仕事でちょっとミスをしたとき、言い訳的にそれが逃れられなかった理由を考えたりすることがあると思う。その根っこにあるのは「(どうしようもない理由があるから)許してほしい」という感覚だ。
・また、こういう「(どうしようもないから)許してほしい」のやっかいなところは、許してもらうことが目的になるがために、出来なくても当然な状況に自分を置きたがるってことだ。つまりそれが被害者的な立ち位置であり、自ら被害者になることで誰かの許しをもらおうとしている。
・「生きていることが許されない」という感覚とともに生きている人はそれなりにいると思うが、誰かに許される(認められる)ために生きる、というのは当然苦しい。誰かに許されずとも生きてて良いのが普通だし、まあそれが人権というやつなので、人権について学ぶことは生きやすさに繋がると思う。
・あとこの話って、責任範囲をどう持つか、ってことも現実問題大切だよな、と思う。
・義務としての責任と、自由としての責任がある。