親です。

読んだ本とかについて書いてます

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』を読んで

どうもmaximonelson49です。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』という本を読んだよ。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』

 とりあえずAmazonリンク。

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

 

 最初に言っとくと、すげえ面白かったし、読みやすかった。書いた人はDARCっていう依存症ケアの施設で働いてる上岡さんと大嶋さん。上岡さんは自身も薬物依存の当事者だ。

ちょっとだけDARCの説明を引用すると、

ダルク(DARC)とは、ドラッグ(DRUG=薬物)のD、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病的依存)のA、リハビリテーション(RIHABILITATION=回復)のR、センター(CENTER=施設、建物)のCを組み合わせた造語で、覚せい剤、危険ドラッグ、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から解放されるためのプログラム(ミーティングを中心に組まれたもの)を行っております。 

【日本ダルク】薬物依存症におけるあらゆる問題を統括的にサポーするオールインワンの統合施設です。

と公式サイトにある。薬物依存に限らず、なにがしかの依存症に対してケアを行う施設ってことだ。国内のこういう施設だと真っ先に名前があがるところで、俺も中学生のときDARCの方がきて薬物ダメだよ〜〜の講演をしていった覚えがある。

んで、ざっくりこの本の内容を書いてしまうと、DARCとかの施設でケアを受け、そして施設を出た「その後」の人々について描かれたもの。帯でも

トラウマティックな事件があった 専門家による援助が終わった その後、彼女たちはどうやって生き延びて来たか。

 と記されており、そういう意味でその後を描く。

私たちはなぜ寂しいのか

全編面白かったのだが、とくに面白かったのが第1章の『私たちはなぜ寂しいのか』だ。

ここでは「応援団」「境界線」という考え方を持ち出して、「家庭に問題がないわけじゃないのに問題をそこそこ乗り越えていっている」人(依存症でない人)が依存症にある人とどのように違うのか? を説明している。

応援団について

(依存症でない人は)観察してみると、どうやらそういう人たちは家族内だけで問題を解決するわけではなく、外側に応援団をもっているように見えました。

[...]たしかにまわりにいる家族が信頼できて、家族だけで解決できればいいけれど、大きな問題になればなるほど、家族だけで解決できなくなります。誰かが外にSOSをだしたり、おそらく家族以外のところともつながりながら、乗り越えていくものだろうと思います。

[...]会社でイヤなことがあったりしても、自分のコミュニティに帰ってきたら、そのなかに自分の価値を見つけられる。(P16,17)

 まあ要するに、自尊心の根底みたいなものを守るものとして「応援団」があるってことみたいです。重ねて重要なのは、家庭内の大きな問題が家庭内で完結せず、外部とうまくコミュニケーションが取られながら解決されること。なぜ外部の介入が必要になるのかというと、家庭内で解決しきれないような問題は、当然子どもにも影響を与えるから。

次に、「境界線を壊されて育つ」とはどういうことなのかについて説明します。

[...]父とおばあちゃんがすごく仲がよくて、母はその関係のなかに入れなかったので、お嫁に来ても不幸だったんですね。私は三歳ぐらいから不幸な母を背負ってきました。今でも母は「ハルエは三歳からホントに役に立った」と言います。でも三歳から頼りになっちゃいけないわけですよ(笑)。(P20)

ここで言われているように、基本的に子どもは誰かに面倒見てもらって生きることこそあれ、他人の面倒をみたり他人を背負って生きるものではない。このように他人の世話をしながら生きるというのは「境界線を壊されて育つ」ということになる。

境界線を壊されて育つとは

 回復というのは、他人を優先していたことが「自分を真ん中にして考える」ことへと変わっていくことです。特にボーダーラインとよばれる境界性パーソナリティ障害の人ほど他人を中心にしています。彼らは自分中心の極みのように思われていますよね。でも違うんです。真ん中に「自分」じゃなくて「他人」がいる人たちなのです。

(P18)

 人はみな、自分自身のためにしか生きていけない。自分が悲しく思えば泣けばいいし、嬉しければニコニコとすればいい。が、他人の世話をするというのは他人の気持ちに寄り添うということだ。

他人の気持ちに寄り添うってのは、字面だけ見ればとてもよろしいことに思える。しかし家庭環境が不安定な状況下では、他人の気持ちに寄り添うことは自らが望んだものではなく、これはもっと切実なものだ。だって自分が頑張らなきゃ、家庭が崩壊してしまうのだから。そういう切迫感とともに生きている。

幼い頃から他人を背負って生きる人々が、何を感じるようになるか。自他の境界があやふやで、他人の責任を取ってきた人々は、自分が感じる気持ちがほんとうに自分のものなのか、それとも他人のものなのか、分からない。そもそも、そこに区別があることすら分からないかもしれない。

お父さんとお母さんの問題を自分のものとして背負っているので、いつもお父さんとお母さんの痛みも感じている。そうすると、やがてそれが自分の痛みなのか、お父さんお母さんの痛みなのかがわからなくなるんです。このことを自助グループで言うと、みんな「そうそう」と共感しますね。そういう区別のつかなさみたいなものが、大人になってもずっとある。(P27)

 そうなると、どうなるか。他人の痛みを感じとると、まるで自分のことのように感じてしまう。すごく助けなきゃと思う。

んで、助けなきゃって思うような相手って、端的にいって人からケアが必要な人なんですよね。だからこういう人ほど誰かにケアしてもらえず、ケアする側に回りがち。単にケアするだけならまだいいけれど、トラブルの多い人(ヤクザ屋さんとか)と付き合ったりしてしまうと、もう大変。そこから薬物につながったりもある。

んで、寂しさ

 こういう自他の境界があいまいな人が、(言い方はアレだけど)普通の人と付き合うとどうなるか。今まで密着して他人の意図を汲むことが愛情だと思っていたから、普通の人を相手にすると遠く感じて、「寂し」いと思ってしまう。相手と重なり合うような(自他の曖昧な)関係を求めてしまう、というわけ。

 その他のこと

 寂しさについてはこんなもん。これだけでも十分面白いんだけど、他にもマジで面白い内容たくさん。下記にメモ。

①支援者側のスタンス、自傷されたときの対応
②からだと薬物
③薬物が精神の均衡を守っている
④虐待されている人がより弱い人を虐待してしまう、ということがある

あと、ここら辺のこと俺もブログにまとめてるんで、まあよかったらちょっと読んでみてくださいよ。ちょっと分かりにくいかもだけど。

優しさと責任範囲について - 今から父になるから俺の悩みを聞いてくれ。

 

はい、これで今回はおしまい。マジでこの本面白かったから読んでくれよな。