親です。

読んだ本とかについて書いてます

乳幼児の権利に関する論文読んだ

『乳幼児の意見表明権とその実施に関する一考察 ーJ.コルチャックの権利思想を基としてー』

という論文を読んだ。なぜ赤子は涙を流さず泣くのか? について調べてたらこの論文がヒットして、結局涙なしで泣くことについては何も書いてなかったんだけど面白かったのでまとめる。

ざっくりとした内容としては

「乳幼児はただ泣くばかりで主体的な存在ではないよね」という一般的な認識があるけど、「子どもの権利条約」ではそれが否定されてますよ。その点に関して、コルチャックっていうポーランドの小児科医・孤児院経営者の思想を元に解説するよ。

というもの。下記に論文の内容をまとめ、思ったこともメモする。

『乳幼児の意見表明権とその実施に関する一考察 ーJ.コルチャックの権利思想を基としてー』(2007 小田倉 泉)

意見表明権」の意味の移り変わり

 タイトルにもある通り、この論文では「意見表明権」って権利が中心的な概念となる。この意見表明権の意味するところが変わっていくんだよ、というのがこの論文のひとつめの要点だ。んじゃ当初はどんな意味を持っていたかというと、それは「子どもの権利条約(1989年)」にある。

本条約の特徴的な権利である「第12条 意見表明権」に関しては、「①自己の意見を形成する能力のある児童」の表明する意見が、「②その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」もの

 (①②の番号については俺が勝手に降ってます。)

まーざっくり言うと「子どもはどのように生きたい、何をしたいしたくない、みたいな意見を言う権利があり、それは大人も考慮に入れなきゃダメだよ」ってな感じ。

ただここで注意したいのだが、当初この「意見表明権」については、比較的高い年齢の子どもが想定されていたようだ。実際、「意見」を表す英単語も条約の審議過程でopinion,wishesなどの表現からviewsに統一されており、①で示された「自己の意見を形成する能力のある児童」が比較的年齢の高い児童を意味するのではないか、と指摘されている。

 「view=高度な意見」を未だ形成し得ない乳幼児の「意思、意向」は、その対象外となる。

 そして、この解釈はのちに覆される。2004年に提出された「乳幼児期における子どもの権利の実施」と題された勧告や2005年に発表された「一般的注釈 第7号」では、乳幼児が子どもの権利を全て享受しうることが明記された。つまり、意見表明権の範囲が乳幼児も含むと断言されたわけである。

 乳幼児の「意見表明権」とコルチャック先生

乳幼児にも意見表明権があるよ、という文章を読んだとき、僕は「へーそれってナイスなことだね」と思う一方で「けどどうやって?」とも思った。正直、かつての「子どもの権利条約(1989年)」の方が感覚として理解しやすかった。なぜなら、乳幼児はまだ複雑な思考もできないだろうし、それに喋れもしないから。

じゃあ乳幼児にも「意見表明権」は保障されなきゃダメってのはどういう意味なのか? というのを、この論文ではコルチャック先生の思想から読み解いている。

寡聞にてコルチャック先生のことは存じ上げなかったんですけど、戦前のポーランドで孤児院をやってたユダヤ人の小児科医で、第二次世界大戦強制収容所にいれられて亡くなっている。wikiには「児童の権利という概念の先駆者」ともありますね。戦前の人なので「子どもの権利条約」に直接的な影響を与えたわけではないんだけど、まあそういう人。一応wiki貼っとく。

ヤヌシュ・コルチャック - Wikipedia

 で、以下では先ほどの疑問に対してコルチャック先生の思想から回答が与えられる。疑問というのはふたつーー①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの? ②発話のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?--である。

①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?

この人は子どもの「3つの基本的な権利」をあげている。ひとつめが「子どもの死に対する権利」ふたつめが「子どもの今日という日に対する権利」みっつめが「子どもがあるがままでいる権利」だ。

ひとつめのインパクトが強すぎて論点がずれそうなんだけど、ここで重要なのはふたつめ、みっつめ。簡単に言うと「目の前の乳幼児自体を尊重することが大切やで」というような話。詳しくは下に書く。

⑴今日という日に対する権利

[...]ついに明日がやってきたとき、われわれは次の明日を待ち始める。というのは、基本的に、子どもがまだ存在せず、やがて何者かになるであろうと、子どもは今は何も知らないが、やがて知るようになると、今はできないがやがてできるようになるのだという、このような考えは、絶え間ない期待を強要するのである。

人類の半分はあたかもまったく存在しないようである。その生活は冗談であり、その奮闘は初心なものであり、その感性は移ろいやすいものであり、その意見はおかしなものである。

子どもは考える。

『ぼくは何者でもない。おとなだけが何・者・か・なのだから。ぼくはちょっとだけ今は大きくなった。でもまだ、何・者・でもない。あとどのくらい待てばいいのだろう。……』

われわれは彼らに明日の人間という重荷を背負わせている一方で、今日を生きる人間の権利を与えていない。

(『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

まあよくある話だと思うけど、「大きくなったらわかるよ」とかそういうのアカンのやで、ということ。子どもの意見が「子どもっぽく」(という表現自体が物語るが、)思えたとしても、それを理由にけなすことは許されない。子どもは子ども時代特有の、その「今」における気持ちや欲求を語るわけであり、それは簡単に受け流されてよいものではない。

⑵あるがままでいる権利

子どもが歩き始め、話し始めるのにふさわしい時期はいつなのか。それは、彼が歩き始め、話し始めるときだ。いつになったら歯が生え始めなければならないのか。それは歯が生え始めるときだ。……赤ん坊は、彼にとって寝ることが必要なその時間に眠らなければならないのだ。

もし従順な『良い』子が突然いうことをきかず反抗的になったら、子どもがあるがままの本質を現すことに腹を立てるべきではないということも覚えておくべきである。

 (『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

正直この⑵「あるがままでいる権利」と⑴「今日という日を生きる権利」の違いが判らないが、こんな感じ。つまり「①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?」の答えとしては、複雑な思考ができずとも、それはそれとして乳幼児の意見は尊重されるべきでしょ、ということである。

②発話できない乳幼児の意見表明権ってなんなの?

はっきりしない未完成の言葉の意味を言い当て、その子供のはっきりとしない最初の言語を理解したときに感じることのできる喜びはどれほど純真なものだろうか。[...]では、涙と微笑みの言語、二つの目と唇の形の言語、身振りや吸い付き方の言語は?

赤ん坊は、顔の表情という言葉で、印象と感情の記憶という言葉で話しているのである。

 (『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

ここではわりとはっきり語っている。発話できなくても、乳幼児は身体全体を使ってメッセージを送ってるってわけですね。この「身体全体」という点はさきほどの「⑵あるがままでいる権利」と非常に近い。私たち大人は人のコミュニケーションを会話によって行うが、こどもは身体全体を使って行う。であれば、私たちは私たちのコミュニケーション方法を前提として子どもを見るのではなく、「あるがまま」の子どもの姿を見る必要があるのではないか。ということ。

(話がずれるけど、世界と交流する方法にはいくつかの段階があると発達心理学でも勉強する。シェマと言って、最初期は唇をつかって世界を理解していく)

んで、この「あるがまま」を見る、という大人側の姿勢が、乳幼児のコミュニケーションには必須であるとも論文には記述されている。

おとなと協同実施する意見表明権

以上で、一見ピンとこない乳幼児の意見表明権について、どんな意味なのかまとめた。「複雑な思考」ができなくとも乳幼児の意見は尊重されるべきだし、「発話」ができなくっても身体全体を使ったコミュニケーション方法を「あるがまま」に受け入れる必要がある、ということだ。

んでまあここで分かるのは、乳幼児の意見表明権は乳幼児ひとりでは権利行使できないってことですね。乳幼児の意見を受け止めるおとながいて、初めて権利が行使される。なるほどねーってかんじでした。

感想 

 以下はこの論文を読んでの感想。

・コルチャック先生の思想を元に乳幼児の意見表明権を紐解いているけど、子どもの権利条約をつくった人たちの認識ではどのような感じなんだろ?

・子ともと大人は対等です!と大人側が言ってしまうことへの抵抗がかなりあった(新自由主義的で)が、大人が協同実施するという考え方がそこに対してのアンサーになっている感じがして、協同実施についてはもう少し考えたい。

・おとなが乳幼児の意見を聞きとる、みたいなことをするのは、実際問題むつかしいのでは? とも。結局おとなの考える乳幼児、みたいなものしか上がってこなさそう。結局おとなフィルターがかかっているのにそれが乳幼児の意見のように扱われるのはどなのかなーと。運用でだいぶずれが生まれちゃうから、実用に耐えない思想だな…とすこし思ったり。

 ・この論文2007年のだからもっと考察進んだ論文が上がってそう。

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以上ですー。