親になることと責任について
どもですmaximonelson49です。書く。
生み育てることと責任
俺は子どもを生(むことを望)むとなったとき、妻と一緒に子どもを生むことってそもそも正しいのか? みたいな話をした。
前にも書いたけど(優しさと責任範囲について - 親です。)責任の基本的な話として「人はその結果を引き受けられる行為について、自由に行うことができる」ってのがある。んで、それを考えるとき「子どもを生む」ということの結果を引き受けるのは子ども自身で、俺たち親ではない。つまり生きたいか否か、というのは子どもしか決めることができず、そんな生死に関わる大問題を親が勝手に決めてしまっていいのか? っていう疑問が残った。
「いや、子どもは生まれたいからこそ生まれるんだよ、生まれたくない子どもは流れたりして自分で生きるかどうかを選んでいるよ」みたいなことを言う人もいると思うけど、それは流れた親に対して慰めにかけられる言葉であり、子どもの意志とかについて語られたものではない。
まあとにかく、そういう「生まれたくないかもしれない子どもを生んでいいのか?」っていう疑問があった中で、結果として俺は親になっている。え?その疑問どうなったの? って感じだが、俺は「別にいいか」って思った。疑問が残るけど別にいいかと思った。妻はもう少しきっちり考え巡らせて決めたのかもしれないけど、俺はそんなふうに思った。
そんなわけで子どもは、一種の暴力を振舞われる形で生まれてきた。俺は暴力として子どもを生(むことを望)んだ。
そんなふうに加害行為として子どもを生んだ俺は今後どうすればいいのか。それはごめんして、いいよって言ってもらうことだ。硬い言葉で言えば、賠償とかして、事後的に俺の行為に納得してもらい、合意をとることだ。俺は子どもを生んだことへの賠償として、子どもを育てている。まあだから、親が子どもの面倒みるのって、当然っちゃ当然なのだ。
(じゃあ子どもは親が単独で育てて当然であり、社会として親の支援はする必要がないかっていうと、そんなことはない。社会的養護? みたいなのがあるたしか)
子どもの自由
んで、故に親は子どもを育てるんだって俺は思ってる。生んだのは親なんだから子どものオムツ替えるのは当たり前だろって。けど、この前提はちょいちょい忘れられてしまう。で、忘れてしまうと、子育てって、単に他人の責任をとっているようなもんになってしまう。
「人はその結果を引き受けられる行為について、自由に行うことができる」って責任のルールからすると、他人の責任をとってる(結果を引き受けてる)ってことは、その結果を生む行為について、自由に行えるとなる。つまり、子どもの面倒を見てるのは親なんだから、子どものすることに口出ししたり、命令したりすることも許される、となる。
まあ現代だとそういう風に考える人の方が少ないだろうが、親は子どもに命令できるわけではない。
(命が危ない、とかのケースでは命令することもあるだろう。そんなときは理由を説明して納得してもらったりすればいいのかなあと思う。他人に従わなきゃだめ、とはあんまり思って欲しくない)
親による子どもの同一化
他人の責任をとったり、他人の欲求を満たすために動くってのは大変なことだ。が、親はそれをする。
『その後の不自由』の記事(http://maximonelson49.hatenablog.com/entry/2017/10/15/172032)でも書いたが、それをすると自他が混同される。そういうわけで、親は子どもを自分と同一視しがち。
笑いと家族関係
親子関係は相手の責任をとったり、相手の欲求に応えたりする関係性だ。んで、そんなわけで自他を同一視しがち。人はこういう人間関係から始まり、大人になって家族以外との関係を深めるにつれて、同一視する人間関係ではなく自他の区別をつけた人間関係になってく。
んで、それを思うとき「人を傷つける笑い」ってのがなぜ善いものだと感じられるのか、仕組みが少し分かる気がする。人を傷つけ、それが面白いと言うことは、自分の行為の結果を人に負わせて、それを善いと言うことだ。で、これって家族的な関係みたいなもんかなって思う。人は人間関係の基礎に家族関係があり、そこでは自分の行為の結果を人に負ってもらうことこそが親しみの証拠となる。んで、そゆわけで、傷つける笑いはその人との親しみを表す。んじゃねーのって適当に思った。
なんかもうちょい言えそうだけど、以上。思い出したら更新するかも。