親です。

読んだ本とかについて書いてます

人間関係についてつらつら思うこと。

雑記。オチなし、論点の整理も適切な説明もなし。

週末の試験に向けて妻が勉強時間くれたありがてぇ〜〜、なんか、今まで(?)は割と俺が融通きかせるケースが多かった(?)と主観的には思ってたんだけど、なんか、うーん、それでやってやってる!俺はいい奴!みたいなのって関係性として貧しいんだよな、俺は人間関係のこと分かってねえんだよな
なんつーかそれは、俺の行為に対して点数がついてて、点数を積み上げて自分で満足してるっつーか、けど人間関係は点数の積み上げで見える化して安心できるものなのか? って言われると全然そんなことなくて、前日めちゃくちゃ仲良くしてても翌日風邪気味で寝坊すれば朝はめちゃくちゃ仲悪くもなる。
うーん、なんだろな?
やってあげたやってあげた、許してあげたから俺はいい奴、それは違うんだよな。相手のために何ができるかとかそういうことでもない、人として当然のレベルで日常を共有できて、日々の楽しみとか悲しみがあればそれを一緒に味わえて、俺は一人じゃないって思えるってことなのかな
俺は一人じゃないって思えること、っていうのは、多分俺にとって人間関係に求める、大きな意味な気がする。喜びも悲しみも一人で感じるのではなくて、誰かと一緒に味わいたくて、関係性を求めてるんだと思う。たぶん。
まあでも、いうて、俺は妻と一緒になるまで、あんまり他者と交わってこなかった、それは一般より多少有意に劣るってレベルで著しいものではなかっただろうけど。大学の頭二年間講義以外は下宿先に引きこもって小説書いてたのとか、それくらいのレベルで。あんまり必要に思わなかった。
なんで俺はあのとき関係性を必要に思わなかったのか、ってのはある。小説書いてたからかな? 成人式出たとき、ひとりでいすぎてマジでコミュニケーション取れなくなってるって気がついて、なんか怖くなったんだよな。死ぬ怖さみたいなのを感じたんだよな。
ひとりではないって感覚、みたいなのは、うーん、思いつきだから、それが、関係性の主目的? 目的っつーか、関係性 is ...みたいなものなのか? と言われると根拠はない。俺は何に悩んでるのかな? って言われても、ジャストでは答えられない。
人間関係ってなんなのか。俺は他者と交わる中で何をしたいのか、っていうか。なんで他者と交わるのか、他者と交わる上でのルールとか、なんだろ、
まあでも問いが曖昧な問題こそ重要な問いだから、こういうことをかんがえられるってことは俺の精神力はかなり回復してるってことだな。半年育児休業とってると、流石にメンタル回復するな。
ってことは仕事の人間関係はきつかったのかな?なんでだろ? どう接していいのか分かんなかったのかな。分かれば適切にやれるかな。
責任の概念が分かった時は、仕事やりやすくなったよな。
当たり前っちゃ当たり前なんだけど、人間関係、一緒にいてgoodって言われれば嬉しいし、badって言われれば悲しいんだよな。ん? そうなのか?俺は人からgoodって言われたくて人間関係やってんのか? goodなときは関係性強くなるし、badなら消える。人間関係はそれ自体のために行われるのか?
けど、人間関係ってそんな受動的なものだけではないよな。俺がgoodって思うこともbadって思うこともあるよな。嫌な奴に好かれても困る、それはありそう。
あとさあ、人間関係で嫌な気持ちになることあんじゃん。なんかこじれた感じの。ああいうとき、たぶん人間関係に関するスキーマが崩れてるんだよな。別のスキーマが働いてる気がする、経験として。なんか別の、たとえば権力関係的な捉え方とかがインターセプトしてんだよな。スイッチはいるんだよな。
あーそうか、昔妻からイベントとか誘われて、乗りはするけど主体的にはならないみたいなケース多くて、これって、わざわざ隣まで来て「俺はそれほど」っていう行為なんだよな、お前とは一緒にいられないわ、みたいな。お前はひとりだよ、みたいな。
無理やり今風にいえば、シェアすることなんだな。どちらも主体ではない? っていうか、場をつくる、あー妻もよく場、って概念出して来てたな、同じかは分からんがそういうことなのかな。
まあそら個人主義的にひとりで楽しみだしたら、一緒にいる必要ある? ってなるよな。俺はこれ、自分の楽しいことはして、けど一緒にいる、何が問題なのかな? って全然わかってなかったけど、うーんというか、なんだろ? 人間関係の時と、自分の時が分かれてたっていうか、けど実際は人間関係と個人は別に相容れない二律背反ではなくて、同時に起こり得る、自分のことしながら人間関係もできる、楽しく自分のことしながら共有もできる? いや単なる思いつきだけど。
これうーん、いや例えば個人でしかできない活動ってあんじゃん、小説書くとかは最たるものじゃん。あとシェア、いわゆるSNS疲れみたいに、なんでも共有する、みたいなのは、変な気も。適切な距離感?あらゆる適切さ論はクソ。何故なら馬鹿が持ち出す論法だから。
あとこれ、もちろん怒りの問題とも接続する。怒りを訴えることは、うーん、かなり、対立して共有が難しいこと、について共有しようとする試み。あーだから怒りは幸福と似てるのか。けどここには諦めもあんのか?いや諦めのある怒りもあれば諦めのない怒りもあるよ。それは別の軸だ。
個人の時間をお互いに持つことと、時間を共有すること。象限の両極ではなく、異なる軸。どゆこと?つーか個人の時間を持つってどういうこと?共有するって?
うん、人間関係が、私はひとりではない、ってことのためにあるなら、共有する内容は色々あるよな。物質とか空間とか時間とか、もしくは感情とか。ひとりでない、一緒にいる、って思う、それはあー、感情移入か? 動機と行為を共有すること。けどこのレベルでなくてもいいよな。個人の活動について共有しようとするとき、別に一緒に行為する必要はないだろうし。俺のこのつらつら考えるやつも、うーん正直、まとまるまではひとりでやりたいし。まとまって、納得して、整理ついた上で聞いてみて、リアクション貰えると、嬉しいよな。中途半端なところでリアクションもらっても、自分の立ち位置がわからない状態だから、相手の言葉も浮いちゃって、座りが悪くなる。
この時点では、へーよかったねとか、その程度で十分嬉しい。俺に何か楽しみがある、それを言えて、共有できて嬉しい。
けどこれ、共有って単に俺の気づきだから、それを第一義にするとコミュニケーションの際に全然共有得られず勝手に悲しくなるよな。そら人の気持ちなんて他人からは分かるわけないわけで、常に同期させられるわけないじゃん?
あ〜〜分かんねえな、責任とかのときは、あれは俺の態度の問題だったわけじゃん? けどコミュニケーションとか人間関係は、そこに求めるのは他人態度じゃん? うーん、自分の基準を持って相手が合致しなきゃ結べませんねの契約スタイル? そこ詰めていくこと自体?
たぶん人間関係の難しさは、俺にとっての難しさはここが大きいのかな? んなもん腹決めるだけやろが。

‪幸福追求権の話の中に責任範囲と同じく、今回の関係性の論も含まれる。‬
‪どう位置づけるか?‬
‪幸福の構成要素に関係性もあるし、関係性を語るとき、あたかも利他的な?態度をとることもある。(利他的は適当)‬

‪関係性になにを求めるか? って目的論は、関係性を求める、って前提に成り立ってる。‬

対象と方法の整理

‪●人間関係‬
‪・問い‬
‪分かんねえ、人間関係‬
‪・適当見立て‬
‪俺はひとりじゃないと思えること。のために感情を共有すること?‬
‪・論点‬
‪①今まで考えてたのは、点数かせいでどれだけ自分に非がないかを示せるか。‬
‪②問いが曖昧、チャンクダウンしてもいいかも。‬
‪③職場の人間関係できつかったのは何? 飲み会とか雑談とかが苦手‬
‪④人間関係、当たり前だけど一緒にいてgoodなら嬉しいしbadなら悲しい、goodなら人間関係強くなる。‬
‪⑤けどそんなに受動的でなくてもよいのでは。
‪⑥人間関係のスキーマ。こじれると別のスキーマが働いてるのでは?‬
‪⑦‬自分の中での位置付け。幸福追求権の話と人間関係は同じものさしの両極ではないのでは? 幸福の構成要素に関係性はあるだろうし、別に自分の好きなことさえやってりゃいいとはいえ、公正の問題とか、暴力の問題とかを避けて通れるわけもない。

‪⑧‬
‪⑨‬
‪⑩‬

‪議論の進め方‬
‪・スコープの設定‬
‪似てるけど違うものを上げていって、なにを話したいか浮き彫りにさせる。‬
‪例えば責任範囲も人間関係に含まれる議題。けど今回は違う。責任範囲の話は、自他の境界の話で、他人を傷つけずにどう接するかって話。今回は傷つけないとかではなく、もっとこう、よりよい関係性みたいなもん。他人との接し方ではなくて、親しい人との、なんだろ、まあ妻とどんな関係性を築いていくか、なんだよ結局は。んでそこから波及して一般の対人関係とか。‬
‪昔は妻との関係もシンプルで、そりゃ子無し時代は一対一で、背負い合うものもなかった。今は子どもを二人で育ててるし、子への責任を分担する。そうでありながら、ビジネスライクになりきる関係性ってわけでもない。単に利害関係で語れるわけではない。‬
‪これは単なる幻想で、子どもを持った時点で関係性はビジネスになる、ってのもあるかもしれんが、それは、放棄くさいので今は考えない。‬
‪なんつーか、うーん、利害関係もあるけど、単にそれだけじゃ一緒に暮らしていくのは難しいわけよ。割り切ってやってくのは難しい。コミュニティの維持のためにも相手に愛着持ってないと難しい。?‬
‪妻とどのように接するのか。他人じゃないんですよ。ビジネスライクにはいかないし求めてもない。日々のことだし、楽しくいたいしいてほしい。一緒にいたいなとお互い思える。損切りを考えるような関係ではない。‬
‪他人ではない親しい間柄の付き合い方。‬
・あらゆる程度問題はクソだから極論で考える
量的問題より質的問題
大切にされている実感。それがないと関係性は難しい。

場について

なんつーか、場の問題、ってのがある。これは関係性みたいなのと同じ。ふわっとした定義。
俺の基本的なスタンスは、人間は自分のしたいことだけをして、それが他人とぶつかるなら都度都度契約してこなせばいい。っていうアルゴリズム
自分の幸福を追求して、そこを他人と共有・契約して、みたいなの、自分で自分を生かすための方法論なんだよな。そりゃこの論は、人の最小単位は個人であり、その個人の幸福に妨げになる集団なら個人は集団を抜け出せばよい、んで個人の幸福を追求せよ、みたいな話だから、そりゃ場には適さないんだよな。人間の最小単位は個人であり、その個人の幸福の追求は何者にも妨げられるものではない、問いはその本人にしか重要性がわからないんだから、個人が他人の意思に関わらず幸福を追求すべき。みたいな。場が場であるためには、そこに含まれる個人たちを連合させるだけのコストは必要で、幸福の追求を地でやろうとすると、あくまで検討されるのは自分にとっての幸福感であり割に合うかで、そこがダメなら場を解散に向かわせる。それに場に参加する他人がどうとかそういうの考えない。契約を前提にしてるから。
契約とか、他人の離脱リスクを計算に入れて幸福感を、みたいなのは、実際俺には無理で、幸福感は自分のものしか測れない。
場を運営するときは、積極的にその場に対してコミットしていくべきで、なぜかというとそうしないと場の問題は掴めないから。
あと、契約の世界だと、うーん、自分がそこにいるメリットデメリットでやってると、ひとりではないとかそういうことが見落とされる。自分の問いに答えているとき、他人の問いは見落とされる。そもそも他人の行為を計算して、みたいなのは無理な話だし、成り立たない。
だから、場に対しては常にコストを払い続けなければならない。関係性に対して努力し続けること。うーん。