親です。

読んだ本とかについて書いてます

他者との関係性について、また絶望について。

どもっす。つらつら色々考えた、あんままとまりないかも。

絶望すること、自暴自棄になること。

今朝、こういうことがあった。

さっき息子氏めっちゃうんちを横漏れして、クッソテンパってしまった。久しぶりの漏れだったし、おれ一人で対応しなきゃだし、ワーとなった。結局息子氏は泣いちゃって、なんだなんだと妻も起きてきた。
こういう時ってさ、手際良くうんち処理できなかったこととか、処理できずしかも息子氏泣かせちゃったこととかでもう既に罪悪感あって、その中で普段は寝てるはずの妻起こしちゃって、悪いことしたなって気持ちがバリバリになっちゃってさ、
で、罪悪感は一般に被害者意識を呼ぶ訳じゃないですか。悪いことしたなって思うと同時におれは頑張ってたし悪くない、何故そこで責めてくるわけ? って思う、みたいなのとか。
今回もあって、正直、起きてきた妻に対して、心の中で、責めるためだけに起きてくるならそのまま寝ててくれって思ってた。
けどまあ、加害者意識が被害者意識を呼ぶってのは認知バイアスみたいなもんだから「責めるためだけに起きてきた」ってのは俺の妄想に過ぎないんだよな。妻は息子氏の泣き声で起きて、普段寝てる時間だし朝も弱いしコンタクトつけてなくて視界もぼやけてるから、少し起動中みたいな感じになってただけ。
責めてるかどうかなんて内心の問題は客観的に測定できないし、責めてるかもって言えるなら同時に心配してくれてるのかもとも思える。実際俺と息子氏のことを気遣って起きてくれたんだろうしな。
あのまま妻が寝てたとして、うんちの処理を終えてそれから俺と息子氏が散歩に行ったとして。たぶん普段よりかは息子氏に対して適当な扱いをしちゃってたと思う。憎くてやるとかでなくても、やっぱ心は疲れてるだろうから、そういうのは身振りに出る。
だから、妻が起きてきてくれたのは息子氏のためでもあり、俺のためでもある、これは割と客観的事実だと思う。
あのとき勢いに任せて妻に怒ったりしなくてよかったって思った。
なんつーかこういうテンパった状況で責められたりすんのは辛いじゃん。なんで辛いかって、自分が引き起こしたかもしれない問題を前にして、お前が悪いって言われるのって、すごく切り離された感覚になるんだよな。
これはお前が悪い、お前の問題だ。困ってる状況を前にして頼りにしてる人からそう言われると、すげえ俺はひとりぼっちなんだな、みたいな感覚になる。身近な人に言われるほど孤独感は深まる。そういうひとりぼっちみたいな感覚にはマジなりたくない。
でさ、俺は妻が起きてきたとき、少し切り離された感覚になりかけてて、それで怒りそうになった。んであのシチュエーションで怒ってたら、さすがに情報少な過ぎるし寝起きだしで妻もなんで怒られてるのか分かんないと思う。当然気持ちはすれ違うだろうし、俺の切り離された感覚も深まっただろうなって。
俺があのとき欲しかったのは、俺はひとりではないという感覚で、それは怒ることでは手に入んない。それは、あの時点での怒りの内実が、妄想で俺と妻を切り離すことであり、責任の押し付けだったから。俺にとってあのとき必要だったのは共有すること。
あのあと妻は息子氏を抱っこしてくれて、俺はその間にうんちをばーっと処理して、そんでそれからふたりで息子氏かわいいねって言って終わった。息子氏はふにゃふにゃ眠そうに泣いて、今は寝てる。
俺は人付き合いとかすげえ苦手だし、単独行動してたらなんかしらんが周りに人がついてきたみたいな感じで生きてきたから、家族とか夫婦とかそういう関係についてよくわかんないんだけど、けど、ひとつ最近思うのは、こういう、俺はひとりじゃないんだなって感覚が、家族や夫婦関係なのかなってことだ。
だから俺は、家族のみんながひとりぼっちだって感覚にならないように振る舞わないといけないし、みんな仲良くやってければいいなって思う。家族の誰かに家族の問題を押し付けたりしちゃだめだし、この家庭で起きた問題はある程度俺の責任として引き受けなきゃと思う。
自他の区別みたいな問題はあるけど、なんだろ、俺の中に常に誰かを抱けるようなスペースを用意しとくみたいな、そういう感じ。
まあこういうこと思えるの、本当に妻と一緒に暮らしてきて色々あったからなんだよな。正直やぶれかぶれで全然妻からしたらわしゃひとりぼっちじゃって感じかもしれんけど、うーん、それはごめんだけど、今俺はやっとこさここら辺まで考えた、それはあなたのおかげですって感じ。

まあそんな感じ。
でさあ、これって前にも同じようなこと書いてるんだよな。
絶望と責任について - 親です。

ここでも俺は、自暴自棄になってしまうより自分の望みに立ち向かってそうなるように動きたいね、みたいなことを言ってる。
そして、前回の記事と今回の記事に共通するのは、結局絶望に立ち向かえないとき、この記事を読んでもなんの救いにもならないってことだ。絶望の渦中にいるとき、そこから抜け出すのは容易ではない。

いや、安直に物を言うなら、その絶望は本人にはどうしようもなかったとしても、一緒に人生を過ごしてくれる相手なら客観的にジャッジを下せるのかもしれない。自己言及したときにパラドックスが起きないように、信頼できるものを自分の外に置いておくこと。そういう話はあるかもなあ。

つらつらと思ったけど、おしまい。またね〜〜。

そのあと思ったこと

また思うことがあった。
(俺の姿勢として)家族・夫婦関係である以上は孤独感を味わいたくないし、させないって話について、まずちょっと考えとかなきゃなのは、家族・夫婦関係の内実はどんなものなのか。例えば親しい友人にも適用されるのか? 何故家族・夫婦関係では孤独にさせてはならないのか?
それと、俺の問題点だった男性的な、相手を問答無用で受け入れるみたいな、そういうスタンスとの違いをおさえていいかもなって思った。
うーん、俺の昔親しかった人で、俺がよく怒られてた人がいる。例えば俺がメシ作らなかったときにすごく怒る。怒られるのは分かるけど、そんな怒るってくらい怒る。
んで、話を聞いてみると、昔家庭でメシ作るのを強制されてて、親に対しての怒りがあったりする。親からされて嫌だったことがあって、その嫌だった気持ちを俺に向けてる。俺はなんつーか、メシ作らなかったこと自体は悪いんだけど、割増料金払ってるかんじ。
んで、こういう本来他人に向かっていた怒りが別の人に向かうみたいなのは、例えばカウンセリングの中でもある。カウンセリングの世界ではこれを転化と呼んで、クライエントが過去の嫌な気持ちとかをカウンセラーに転化させて、そこで擬似的に解消させるみたいなのがカウンセリングの王道。
俺は当時そんなこと知らなかったけど、その人から怒られてて、まあ俺が本来引き受けなきゃならない責任ではないなと思いながら、まあええかと思った。
その人がマジでめちゃくちゃに怒るとき、その怒りは同時にその人が辛く思ってる量で、そんなに怒るほど辛いことが過去にあったのかと思った。正直、物使って殴られたり蹴られたり流血とかもしてたし眼鏡が2回くらい割れてキツイなこれと思ったけど、まあええかと思った。
この怒りは本来相手の親が解消すべき問題で、けど、たぶん思うにこの世には、そういう未解決の問題がめちゃくちゃある。その人の親にしても未解決の問題を抱えて、それをぶつけたのかもしれない。誰にも責任を取られなかった問題ってのはどこまでも連なって、結局行き着くのはその場で一番弱い人間だ。
って思ったとき、俺はまあええかと思った。俺は幸い未解決の問題を抱えてないし、ソコソコいい会社にも勤めてて、体格も良くてそしてなにより男だ。余裕あるし、なら、誰かのために俺のスペースを貸し出すことは全然難しいことではないと思った。
俺は社会的に強者だから、弱者を受け入れられると思った。んで、ここからがこの話の一番重要なところなんだけど、そう思って、俺は、俺ってなんて優しくていいやつなんだろうって思って泣いた。マジ感動的だと思った。小説にしたろと思った。俺のこのスタンスはナルシシズムだったわけ。
他社の責任をとるっていう男性的なナルシシズムは、基本的に相手を俺の感動のための道具としてしか見てない。だから、うまく感動できなくなったとき相手を捨てる。俺はそのあと結局相手の苦しいときにお前は俺を殴ったよなって言って相手を裏切った。
そういう態度と、今回の家族・夫婦関係においては相手を孤独にさせないみたいなものは、相手の責任を負うって点で似てる。けど、たぶんこれは、家族・夫婦関係では、俺が妻に「俺をひとりぼっちにしないで」と頼ることで、たぶん、うーん分からんけど、ナルシシズムとは別のものになれるんだと思う。
分からんけどな。けどそんな気がする。

夫婦や家族に対して求めるもの

この件で俺の中ではっきりしたのは、なにより俺にとっての夫婦像や家族のあり方みたいなものだ。
どっかに書いたと思うけど、子ナシ時代の俺は、結婚することでむしろ自由になれたとしきりに言っていた。お互いのやりたいこととか認め合って、自信が持てて、それで個が確立されていくみたいな。結婚は関係性の構築であるというより、自分の中に潜っていくための手段みたいに捉えていた。
まあそういう面はたしかにあんだけど、けど今回思ったのは、それでも俺が結婚とか他者との関係性の中で求めていたのは、その関係性自体であり、おれはひとりではないっていう感覚だった。そういう感覚があって結果的に個が深まることはあるけど、それだけではないし、個が深まるかどうかってのは関係性に固有の効力ではない。他者と関係を持つということは、それ自体に意味がある。
まあ所詮俺にとっての問題なので一般化することはできないが、それでもこういう考え方の更新みたいなのは俺にとってとても良かったと思っている。俺はまあそれなりに我が道を行く感じで生きてきて、他人との関係性についてあまり考えてこなかった。だから、関係性それ自体に意味があるって思えたことは、大きな転換点だったと思っている。どう振る舞いが変わるとかは、分からんけどね。

以上。