親です。

読んだ本とかについて書いてます

08_「流」東山彰良

流(読み:リュウ)を読みました。

前回だったか前々回だったかの直木賞受賞作で、たしか北方謙三あたりが、ものすごい商売敵が出てきた、みたいなコメントを残していた小説です。それが少し頭に残っていて、この間電子書籍のポイントが1000ポイントくらい溜まってると分かって、買いました。

とりあえずあらすじですが、

人に厳しく、また多くの欠点を持つが、孫の自分にだけは優しかった祖父・葉尊麟が殺された。台湾の高校生だった主人公は、風呂場に沈む祖父の鮮烈な死に姿を頭のどこかにとどめながら、青春時代、青年期を過ごす。

みたいな。

最後に青春時代とあるように、これはいい青春小説でした。最近めっきり本の読めなくなった僕としては、珍しく一気読みに近く、読んでいる間は心がこう、鼓動を取り戻す感じがありました(よく分からんけど)。


青春小説に構成はあるか?

最近なのですが、『ウォールフラワー』(2012、米)という映画を見ました。こちらもすごく(めちゃくちゃ!)良い青春映画。今回の『流』も負けず劣らずだったのですが、こういう青春小説・物語を消費するたび思わされるのが、青春小説に構成はあるか? という問題。

ここでいう構成というのは、起承転結とか、三幕構成とかの構成です。より詳しくいえば、『ハリウッド脚本術』とか『SAVE THE CATの法則』とかで使われる意味の構成。(まあ本来ならカッコ付けの表現をした方がいいとは思いますが面倒なのでやめてます。)

で、この構成を意識して物語を作る際、テーマに添わない・必要ないシーンは極力排されることになる。ハリウッド映画を思い浮かべてもらえればいいと思いますが、悪い敵がいて、それをひたすら追いかけるような内容になるわけです。それはひとつのシーンが次のシーンを必然性をもって導くようなストーリーになります。

僕は基本的に、そういう物語に対して美しいという感慨を抱きます。狙って面白いものが作られている、というのが面白くて美しかったり、また、小説の神聖な部分が崩れていくのが心地よいと感じたりするんですね。


で、見出しの問い「青春物語に構成はあるか?」の答えですが、一見する限り、ある。けれど、強い構成は存在しない。絶えず物語を更新していくような、必然性をもってシーンが連なる物語作りはしていない。

むしろ、大きなハコ的なものとして構成があり、ハコの中にシーンがたくさん入っている印象。まあ物語作りにおいてよく使われる表現ですが、骨的なものとして構成があり、シーンが肉付けされている。


繰り返しますが、僕が好きなのは必然性をもってシーンが連なる物語です。けれど、一方でこういう青春物語に対して、構成では説明のつかない面白さを感じるわけです。

これを僕の中の言葉で表現するなら「絶対的なドラマ量の多さ」と言えます。言い換えれば、フリ−オチ関係の多さ。もっとざっくり言えば、面白さの多さ。ところどころに現れる小話や、昔話、回想、かと思えば一気に未来の話になったり、そういうのが縦横無尽に現れていく。


これは、究極的に構成的なお話作りでは不可能です。一本の糸として物語を作る思想では不可能。同時に複数の時間軸を、しかもワンシーン単位で流すのは、たぶんあんまり好ましくない。

本来構成とは、物語の中で描けるドラマを連ならせ、一本の糸として扱うことで、感情移入を持続させる技術です。ストーリーに合致しないドラマを省く代わりに、連なりによって物語を一方向に駆動させる。

その一方で、『流』や『ウォールフラワー』のような青春物語は、ぼんやりと大きな構成のハコの中に、本当に魅力的なドラマを詰めている。


まあ感想としてはありきたりですが、そんなかんじ。大きなストーリーがどうこうというより、めくったページの分だけ幸せ、みたいな本でした。

あと『ウォールフラワー』はマジでオススメです。


流


最後に

今、僕は“本当に魅力的なドラマ”という言葉で逃げましたが、おそらくここも可視化できる。量的には何ページの間にドラマをいくつ用意すれば魅力的と言えるとか。質的には、物語で触れられたキャラクターの描写方法を類型化していけば、そのうちキャラ質問票とかの形で、ある程度のドラマを担保できるようになるのではないかと。


こういうことを、僕はやりたいです。