親です。

読んだ本とかについて書いてます

コミュニケーションと権力関係について

どうもMaximoNelson49です。ずっと考えていたことについて、ぼちぼちまとめる。

 

コミュニケーションについて

 
コミュニケーションってつまりなんなのか、みたいなことをよく考える。何故かというと、僕自身がそれなりのコミュ障で、なのに割りとコミュニケーションを必要とする状況にあるからだ。具体的にいうと、去年僕は結婚した。それまで親しい友人も少く、異性との付き合いもなかったので、コミュニケーションについてまあ苦労した。
 
たぶん、一般にいうコミュニケーションの苦労というのは「他愛もない話を続けるのが苦痛。」みたいなのだと思う。そんで相手からつまんねーなと思われたりして、つらい。
僕の場合は、上記に加えてもっと明確な問題点があった。なんというか、自分がつらいとかではなく、コミュニケーションに起因して実害がでて、相手に迷惑をかける、みたいなことが起きていた。
 
具体的にいうと、
・一緒に遊びに行くとき、自分の意見を言わず相手に一任してしまう。
・誘われて相手の言うことに乗るくせに、後になって「実はやりたくなかった」と言い出す。
 
ここの「実はやりたくなかった」と言ってしまうパターンは深刻で、妻との結婚後においても「やると言ったのに何故協力しないのか」「俺はあなたに従っただけ(だから責任はお前にある)」という衝突が多く、明らかに僕のコミュニケーションにおける問題点だった。
僕の「俺はあなたに従っただけ」というのはかれこれ2年くらい続いて、そのたび妻には迷惑をかけていたのだが、最近、ようやくこれがなくなってきた。で、今になってみると、したくもないことをしたいと言ってしまった理由が分かる。
 
理由はだいたい以下のとおり。
・相手の興味があることに「俺はそんなに興味ないわ」とは言えなかった。
・相手の興味があることに対して「興味がない」のは、物事を楽しめない自分が悪いと思っていた。
・相手と気が合わないと、一緒にやっていけないと思っていた。
・相手の方が人間的に優れており、自分は合わせる側であると思っていた。
 
など。
雑に言えば、僕は妻と同じ考えをし、同じことに興味を持ち、同じ意見を持たねばならないと思っていた。
 
たぶん、こういう考え方って、空気を読むことを推奨される村社会な日本では割りと主流だ。以心伝心とか、人と人とは分かり合えるとか、まあ色んな形でそれが正しいとされている。僕は岐阜県出身で、日本の田舎的共同体で育ってきた人間であり、両親も特段進歩的な考えをしていなかったので、はだ感覚で「人と人は同じものだ」と思っていたし、そうあらねばならないとさえ思っていた。
 
ただ、僕がコミュニケーションに難を抱えたことで分かるように、この考え方をこじらせるとやっかいだ。
だって人と人は同じものではなく、異なる存在だ。同じ考えを持つことなんてほとんどないし、ものの考え方や感じ方、興味のあるものは異なっているのが当たり前だ。
 
だからこそ、人と人とが同じだと強く思っていたかつての僕のコミュニケーションは苦しかった。僕がコミュニケーションを通じて行ってきたのは、人の考えを読み、そこに自分をアジャストさせることだ。でも当然無理だから、言葉面だけ合わせるようになった。
で、結局言葉面だけなのがばれて、妻からめちゃくちゃ怒られるというのを繰り返していた。
 
たぶん以前までの僕が、どうしても「人と人とは同じ存在である」と思い込んでいたのは、たぶん自信のなさとか、承認欲求とか、そういうアレなんだと思う。つまりは、自信のない自分の考えについて疑問を持たれたり、対立したりすることが怖かった。
 
ただ今になって思えば、「人と人とは異なる存在である」とか、意見の相違とかって恐れる必要がない。今までは、異なれば批判されるとびくびくしていたが、よく考えてみれば、どう思うかなんてのは個人の好みであり、相違がでることを非難されるいわれなんてない。僕らは「お互いが異なる人間である」という当たり前のところからスタートしてコミュニケーションを取らなければならない。つまり、多少大袈裟に言えば、人間はみな対立関係からその関係を始め、そしてコミュニケーションを通して合意に至る。
 
僕みたいな「人と人とは同じ存在だ」と考えている人間にとって、コミュニケーションとは相手の考えをどうにか読みとり、頑張ってトレースするものだった。けれど「人と人とは異なる存在だ」という前提に成り立つコミュニケーションは、いかに自分の考えを表明し、意見の異なる相手と合意するか、というものになる。
 
僕はカウンセラーでもエスパーでもないし、相手の考えることなんて分からない。それに比べて自分の気持ちを正しく理解し、自分と相手にとってよりよい答えを探していくことは、相手の気持ちをひたすら察するよりかはいくらか生産的で、ポジティブだ。だから僕は、後者のコミュニケーションをとることにした。
 
そんなわけで、僕は、コミュニケーションの基本は、合意にあるのだなあと、思っている。
 
 
で、だ。
コミュニケーションを「合意」と言ったばかりなのだが、その「合意」が成り立たないケースというのが、世の中にはわりとある。
 
 

合意と権力関係

 
以前、こういう本を読んだ。
 
 
スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか

スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか

 
 
タイトルの通り、スクールセクハラについて書かれている。スクールセクハラとは、簡単に言えば教育現場で起きる、教師から生徒へのセクシャルハラスメントのことだ。セクハラ教師のインタビューが何本か載っているのだが、ここで強烈に印象に残っている言葉がある。
 
それは、生徒にセックスを強要した教師の口にした言葉で、「お互い楽しんだよな」というものだ。
 
おお、気持ち悪い、と思ってしまうのだが、この「お互い楽しんだよな」という言葉の意味するのは「このセックスはお互いが望んだものだ」ということである。つまり教師はここに「合意」があった、としているわけだ。しかし実際のところそこに「合意」はなく、セックスは教師が「強要」したものだった。
 
そしてこの「強要」について、本書は「特別権力関係」を教師が悪用したものである、としている。
 
「特別権力関係」とはなにか。
てきとうなネット辞書で調べると、
 
ドイツ行政法のbesonderes Gewaltverhältnisに由来する概念であって,明治憲法下の日本行政法学によっても用いられた。特別の法律上の原因(法律の規定または当事者の同意)に基づいて,一定の範囲で一方当事者が他方を包括的に支配し,相手方がこれに服従しなければならないことを内容とする関係。このような関係は一般の民事関係でも,例えば親子関係などにみられるが,特別権力関係というのは通常は公法関係のそれを指す。
と出る。
 
簡単にいうと、教師は生徒に指示をだし、生徒はそれに従う、そんな関係にあるというわけだ。つまり、強要の意図あるなしに関わらず「教師」と「生徒」という構図が、意見を否応なく押し付け可能にする、というわけである。
 
だから、いくら教師が「合意」の上と言おうと、教師の言葉に抗えない生徒にとって、教師の言葉は「強要」となる。
 
つまり、このような権力関係のあるところで「合意」を結ぶのは難しい。
 
 

コミュニケーションの限界

 
このような特別権力関係は、教師と生徒の関係に関わらず、色んなところで散見される。たとえば、親子関係や職場の上司部下がそうだ。そしてこういう関係、つまり権力関係のあるところでは、基本的にコミュニケーションが難しいんじゃないかと、僕は思う。
 
 
このことから、誰かに権力を握る側の人間は、以下の点に気を付けるべきかと思う。
 
  1. 他者に対して権力を握る側は、健全なコミュニケーションを望む限りにおいて、その不可能性を自覚すべきである。すなわち、自分の言葉は基本的に強要となることを自覚すべきであるし、私たちは対等だからと安易に考えるのは無責任である。
  2. 不適切な権力の行使を防ぐために、権力を握る側は、その権力の範囲を自覚し、権力を握られる側と共有すべきである。分かりやすくいえば、教師が権力を行使できるのは教育の範囲内であり、性的な関係に代表されるような、教育以外のものごとを強要する権利はない。そのことを生徒と共有し、適切な範囲を超えるところにまで権力が及ばないよう気を付けるべきである。
また、以下のことを、つらつら思う。
 
  1. 健全なコミュニケーションのためには、権力関係そのものを崩しにかかる方が本質的かもしれない。
  2. 権力を握る側は、握られる側に奉仕すべきではないか。
  3. 権力を握る側は、握られる側に様々な強制が可能であり、動機付けも可能である(教育は多かれ少なかれその形式をとっている)。しかし、それによって握られる側が自発的な動機を抱く機会は失われてしまうのではないか。
  4. DVは暴力によって相手を意のままに操るものであり、根拠のない権力関係を形作るものである。そのため、健全なコミュニケーションの観点から、DVはすべきではない。
 
 
最近は新人教育でそんなことばっかかんがえてます。外的動機付けと権力関係のこととかも。まあそんなかんじで元気です。
 
今回は以上です。
 
(以下、17/05/22追記)
自由意志に基づいた合意、と言いながら意志の前提にある権力関係を見過ごしてしまうのは、新自由主義が自分で決められる範囲を広げる一方、社会的な差別や格差問題に対応できていない姿と似ていて、面白いなと思った。