親です。

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優しさと責任範囲について

どうもMaximoNelson49です。
優しさと責任範囲について、書くよ。
 
先日、妻の友人と同席する機会があった。妻の友人と顔をあわせるのは初めてで、去年妻と僕は結婚していたこともあり、めでたい、みたいな感じになった。
で、こういう祝いの雰囲気では、当たり障りのない会話として夫(僕)は誉められる。コミュニケーション能力が高ければそういうお約束の会話でなくて人と人とで行うコミュニケーションができるのだが、悲しいかな僕はコミュニケーション能力が低くって、まあ人に誉められた。で、さらに面倒くさい人間で申し訳ないのだが、誉められた内容で「皿洗いをするから優しい」というものがあって、なんだそれ?と思ってしまった。
僕にとって皿洗いは単に我が家のルールであり、優しさでやっている認識がなかった。つまり僕の責任範囲にあったからやっただけで、(優しさから)とらなくっていい責任をとったつもりはない。
 
今回ブログを書こうと思ったのは、この「はぁ?」みたいな感覚が元ネタだ。優しさと責任の話って、けっこう関わりがあるんだな、明文化して押さえておくと面白そうだな、と思って、考えをまとめた。

(だって例えば普段は家事を一切しない妻/夫がゴミ出しして「オラ優しいだろが感謝しろや」とか言ってきたら嫌でしょう?)

 

概要・もくじ

先に、当ブログポストの概要だけ書いておく。このブログポストの大きな目的は、優しさと責任範囲の見分けをつけることだ。ここまでは自分の責任範囲だからやってて、ここからは本当はやんなくてもいいんだけど優しさでやってます、と言えるようになること。
論全体の流れとしては、『責任の話』『責任範囲の話』『優しさの話』と展開させようと思っている。最初の『責任の話』は少し抽象的になりそうだが、まあごめんなさいというかんじ。

 

責任について

優しさと責任範囲の見分けをつけるにあたって、まず責任とは? というところから考えたい。この記事の前提として、責任範囲(=やらなきゃいけないこと)を超えた物事を優しさ(=やんなくていいこと)と捉えている。となれば、責任範囲がどこまで及ぶかさえ分かれば、優しさと責任範囲の見分けは簡単につきますよね、って話だ。
ではまず、責任とは? の話から。とりあえず一般的な定義をもってきて共有地点を作りたいんだが、てきとうなネット辞書(デジタル大辞林)で調べると、責任とは下記のようになる。

 

せき‐にん【責任】
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
(引用元:https://kotobank.jp/word/責任-547351)

まあ何らかのしなきゃいけないこと、みたいな意味らしい。

じゃあなんで、しなきゃいけないこと、責務、義務が発生するのか? これは(僕の大好きな)幸福追求権で説明がつくと思う。それを説明する前に、ちょっと前提となるお話を挟む。

 

幸福の追求と原始的な責任

幸福追求権とは何か。まあ読んで字のごとく、人は幸福を追求する権利があるよ、って話だ。これはたとえば雨風が強ければ家を建てたり、格好いい服が着たければ買ったり、という権利は自分にありますよ、ということ。

んでこれは、変な言い方をすれば、基本的には自分を幸福にする責任は自分にあるということだ。

得たければ行為して、不要なら行為せず、回避したいなら行為して、回避しなくてよいなら行為しない。私たちはみな、ある結果が、それを得るための行為に見合うかどうか考えた上で、そこに合理性とか経済性とかを主観的に見出せていれば、その行為と結果を引き受ける。んでまあこれって権利云々の話じゃなくて、実際そうしてるよね、って話だ。(こういう「可能である」こととか事実とかから派生してるから、幸福追求権は僕の中でちょっと特別な権利になっている。)

まあこのように、幸福追求権とか自分の人生に対する責任とかがある。

で、そろそろなんの話だか分かんなくなってきたと思うが、この幸福追求権とか自分の人生に対する責任とかが競合する範囲で、一般的な意味での責任が発生してくるのだ。

 

幸福追求権の競合と社会的責任

どういうことか(いやまあ簡単な話なんだが)。

まず、前提として「私たちは私たち自身の人生について、幸福にする権利がある」。

で、そういう個人が寄り集まって社会を形成したとき、自分を幸福にしようとした結果、他人の人生に影響を与えてしまう、というのがかなりある。

このとき、私の立場からすれば自分に影響を与える物事は自分で決定できるはずだが、他者の立場からすれば他者自身の物事について決定できていない。

で、どうすんのかというと、なんらかの合意を形成すればよい(じゃんけんするとかして)。

このときに生まれた取り決めを守ることが、義務的な意味を含む、社会的な責任だ。

こういう取り決めはこの世にあふれていて、例えばそれが法律だったり、家庭内でのルールだったり、または職業規範だったりする(言うまでもなく、幸福追求権に基づいて合意を形成すべき、という考えもまた合意である)。

 

まあざっと考えてみたところ以上のように整理できた。クッソ簡単に言えば「ルールは守りましょう」ってだけなんだが、大事なのは「自分の人生を自分で決める」ってのを権利のレベルで保証するために責任は発生したというところだ。

 

責任範囲について

 さて、以上で責任という概念がどう生まれたのか? みたいな仮定をばばーっと書いてみたが、ここで一度整理したい。

責任は下記3レベルに分けられる。

  1. 事実として、私は私のために生きている、ということ。(前提なしの責任)
  2. 権利として、①を社会的に認めること。
  3. 義務として、②の結果発生した様々な約束事。

それぞれ具体的なエピソードを交えつつ説明を加える。

①前提なしの責任

自己の人生に対する責任。私は私のためにしか動かないし、他人は他人のためにしか動かない。ゆえに、自分に影響の出る範囲については口を出せるし、自分に影響の出ない範囲については口を出す義理もない。

夕食を一緒にとっていると、同居人が「明日早いんだよね」と言った。

自分は明日はオフの日だったので、趣味を夜遅くまでやっていた。そのせいで翌日はいつもより遅く、11時ごろ起き出した。すると、同居人もちょうど起きたようだった。同居人は激しく焦っていた。

 同居人が遅刻しようと私に責任はない。私の行為によって同居人は遅刻したわけではない。また、同居人のために早寝早起きをする義理もない。

②幸福追求権

①を社会的に認めたとき発生する。私は私のために生きるが、その行為が他人の人生に影響を与えるとき、合意を形成する必要がある。ゆえに、私は他者に影響を与えるとき、合意を得た上でそれを行わなければならない(口を出させなければならない)し、他人の行為が自分に影響を与えるとき、合意の形成(口を出すこと)を求めることができる。

夕食を一緒にとっていると、同居人が「明日早いんだよね」と言った。
自分は明日はオフの日だったので、趣味のデスボイスを夜遅くまでやりたかった。しかしそうなると同居人の睡眠に影響するため、夜10時までと約束した。

 自分の楽しみを追求した結果、同居人の睡眠に影響が出てしまうため、口出しを認めなければならない。

③合意されたもの

②の結果生まれた合意。3つのレベルがある。

⑴法律、家庭内のルール

②の範囲内で結ばれた合意。権利が競合したときに結ばれた合意で、それが一般的にいえたため社会的なルールとなったケース。決まりごとは守らなきゃいけないし、合意している限り守らせることができる。

私たちの市では、公園で花火を行うことは禁止されている。

⑵法律その2

①の範囲で作られた約束事。他人にはなんら迷惑をかけないんだが、社会のルールとしてやめましょうとなってるもの。マリファナとかは健康被害もそんなないし、酒みたいにアッパーになって他人に迷惑かけるわけじゃないんだが、禁止されている。

海外では医療用大麻が認められているが、日本では認められていない。

⑶優しさ。

①の範囲外でされた取り決め。自分には影響しない範囲なんだが、あえてその責任を引き受けるもの。

 同居人に明日の朝起こしてもらえないかと頼まれた。私は翌日オフの日だったが、早起きして同居人を起こしてあげた。

またこれらの本当にらちがいに、合意のない行為、みたいなのもある。

 

優しさについて

さて、以上のように私たちの責任は「自己合意した①の範囲 + 社会的合意の範囲」ということになる。

また、さらっと優しさを登場させてしまったが、つまり優しさは自分に責任のない範囲で、あらたに合意を形成して他人の責任を負うことである。このような責任範囲の図を元にすると、優しさについての注意点も分かってくると思う。

①前提としての合意

優しさってのは基本的に越境行為であり、合意を形成せずして成り立たない。合意を行わずに相手の責任範囲の物事を行うことは、これは結果がいかに相手のためになろうと、「あなたの人生は他人によって口出し可能なものである」と言っているようなもんだ。これは簡単に絶望に繋がるので気をつけた方がよい。

②報酬について

何らかの報酬(感謝など)を求めるなら事前にそれを告げておくべきだ。そうでないと、飯おごってあげる、って言っときながら会計の時に翻してワリカンでって言ってんのと同じになる。

③優しさを優しさとして求めること

 優しさは基本的に責任の範囲外であり、負わなくてもよい責任を負ったものだ。だから、すでに合意していないかぎり責任を負う義務はない。優しさってのは社会善なので、優しくないとバッシングされる向きもあるが、非難されるいわれは全くない。むしろ優しくしないと非難されるから(私が不利益を被るから)と正当化して合意してもいない優しさを押し付けてくる方が厄介である。

 

 最後に

 さてこれでこのブログポストは終わりだ。この責任の話はまあ自分の生活から出てきたもので、何の論理的な後ろ盾もないんだが、実際こういう考え方できるようになって以来、お仕事がやりやすくなったので多少は役に立つかなと思っている。あと関連の書籍あったら教えてプリーズ。

まあ、なによりずっと書こう書こうと思っていたことをまとめられて僕は満足です。

最後にいつも通り、その他の雑感や今後の課題的なところを列挙して終わりたい。

 

・前提なしの責任、って考え、よく分からんと色んな人に言われそう。要するにこれはニヒリズムです(たぶん)。責任について説明してるところに、そういう別の説明しなきゃいけないのを突っ込んでるから分かりにくいんだが、けど説明すると長くなりそうなのでやめました。

・この論は基本的に、自分について自分で責任を持てる健全な人間、というのを前提としている。このとき、自分の責任範囲を果たせない人はどうなっちゃうのか。例えば、子供、老人、障害者、他には会社の新人とか。幸福追求権を社会的に認めるとき、それが社会を殺すことにならないか。

・おそらく素朴な責任意識を持つ(前提なしの責任)ところでは、自他を同化させて自分の範囲を広げ、それによって社会を成り立たせていたんだろうなあとも思う。

・そうなると、あらゆる権利は嘘なのと同じように、自我とか意志とかの存在自体が近代的な制度である、ってのはありそう。私たちは意志を持ってはいない。

・バンジャマン・コンスタンの「近代人の自由と比較された古代人の自由について」では古来の自由観は集団に対して意思決定をできることだと言っている。これも、ある種意志の否定かなにかかも。

・また、ずっと他人の責任範囲の責任を取らされている人は、自他の境界が曖昧になるだろうなとも。母親とか、兄とか。

・あと社会的抑圧で自分の生活を誰かの欲求に拠出しなけりゃならない人たちも、基本的に責任の概念が曖昧になっちゃうだろうなと。うーむ。

 

最近は仕事が楽しいです。IT系の方面でもちゃんと活動できるようになりたい。

以上!

 

(170606追記)

・殺人は取り返しのつかない罪だ、という言葉を聞くが、あれは正しくなくて、全ての罪は取り返しがつかない。ただ、一般的な罪はその行為後に裁判とかを通じて事後的に両者で合意を得ているというだけ。しかし殺人(や労災で労働者を意思決定できない状態においやること)は、合意を結ぶ主体がいなくなってしまってるわけであり、事後的な合意もとれない。ゆえに取り返しがつかないように見える。