親です。

読んだ本とかについて書いてます

物語を貫き、構成する要素:内的問題と外的問題について

お疲れ様です。森田です。
脚本術で扱う概念について、簡単に整理します。

脚本術の概念について整理する記事を書こうと思ったときに、まあ三幕構成とかを最初にやるのがいいかなとも思ったんだけど、理論的な基礎がどこかと考えたとき一番の基礎は内的問題と外的問題だろうなと思ったのでそこを書く。

(ちなみに三幕構成とかのことを知ってる人の方が本記事を楽しめるってのもまた真実。三幕構成についてはwikipediaの三幕構成の記事を読むとかするとまあ分かる。)

ちなみに内的問題と外的問題という概念はあくまで森田の勝手に考えているものだと思って欲しい。今から書くことについて、ジャストそのままで扱っている脚本術の書籍はない。似たことがロバート・マッキー『ストーリー』に書いてあるが、若干違う。

全体構成の中での「内的問題と外的問題」

内的問題と外的問題という概念が出てきている書籍のひとつに、『ハリウッド脚本術-プロになるためのワークショップ101』 ニール・D・ヒックス著 がある。ここではそれぞれを「内的な欲求」「外的な目的」と呼び、このように定義している。

まず「内的な欲求」について。

[...]確立されつつあるのが主人公の内的な欲求である。[...]個人的なドラマでは、この失われた特質とは、思いやり、寛容、場合によっては自立と言ったようなもので[...] (『ハリウッド脚本術-プロになるためのワークショップ101』P28)

これ要領を得ないですね。要するに、キャラクターがどんな内面的な変化を望んでいるか、ということ。別の書籍とかだと「キャラクターのアーク」とか「霊的な問題」とかって呼ばれることが多い。

続いて「外的な目的」について。

主人公は人生をより良くするためにその目的を達成したいのである。人生をより良くするということは、特別な恋を見つけることかもしれないし、誰かを危険から救出することかもしれないし、[...]それが何であれ、主人公は問題の答えとして外的な目的を定め、観客である我々はその目的を、キッカケとなる事件が確立した劇的葛藤を解決するために、主人公が達成しなければならないものとして認識するのである。
(『ハリウッド脚本術-プロになるためのワークショップ101』P30)

これはまだ分かる。物語の中で主人公が実際に行動して得ようとするもののことだ。これは「セントラル・プロブレム」とか「中心的な問題」とか「触れられる問題」など、まあいろんな呼び名がある。

なぜこの二つを最初に紹介したかというと、こと現代の物語において、この二つは物語の脊柱的な役割をしているからだ。大概の物語では、主人公が実際に取り組む問題について描かれるし、それを通してどんな変化がもたらされるのか、という点についても描かれる。

例えば『NARUTO』だったら「里のみんなを守る」が外的問題で、「みんなに認められる忍び(=火影)になる」というのが内的問題だと思う。ここはまあ色々と解釈が可能(とりわけ漫画だと)だが、とにかくそういう二つの大きな流れがあるというのは理解してもらえると思う。

物語の最小単位としての「内的問題と外的問題」

ここでひとつ考えてもらいたいポイントなんだが、『NARUTO』がもし第一話で打ち切りになっていたとしたらその内的問題と外的問題はなんだっただろうか。
[第1話]NARUTO—ナルト—

ここでのナルトの外的問題は試験に合格することで、内的問題は誰かから認められることだ。
まあつまり、第一話の中でも構成が見て取れそうだ。そしてさらにこれを推し進めてみるとどうだろうか。ある特定の一コマにも外的問題と内的問題はあるだろうか。

ここで俺が話したいのは、どんな瞬間を切り取ってもナルトには外的問題と内的問題があってすごいよね、という技巧的な話ではなくて、どんなシーンを切り取ろうが物語には外的問題と内的問題が潜むとか、私たちは内的問題と外的問題を無意識に整理することによっていくつかの事象を物語として把握するということだ。

これ若干論理の飛躍があるので前後しつつも説明させて欲しいんだけど、まず、内的問題と外的問題を再定義する。

まず、外的問題について。
根本的なところからだけど、私たちがある事象を外的問題だと捉えるには必要なものがある。具体例でいうと、ある喫茶店が潰れそうになっているとき、その喫茶店の店主は「潰れないように売り上げを伸ばす」という行動に出る。それに対してその店に金を貸している極悪地銀の職員は「債権が焦げ付かないうちに金を回収する」という行動に出るかもしれない。はたまた1ヶ月前にその喫茶店の近くに引っ越してきた住民は「潰れちゃうんだーと思って夕飯の話のネタにする」という行動に移るかもしれない。

つまり、ある特定の事象を外的問題だと捉えさせているのはキャラクターに他ならない。特定の動機を持ったキャラクターが外的問題を見出して行動に移る。

次に内的問題について。
あるキャラクターが勇気を持ちたいと思うために必要なものはなんだろうか。具体例でいうと「好きな人が引っ越してしまい二度と会えなくなる状況」だとか「敵地奥深くに味方が取り残されてしまった状況」だとかまあ色々ある。

つまりここではある特定の事象がキャラクターの内的問題を喚起している。特定の状況がキャラクターに変化を求めているわけだ。

で、勘のいい人は気がついたと思うが、これは相補的である。

ある特定の事象下でキャラクターは特定の動機を抱く。するとその動機は、キャラクターの周囲に行動すべき課題を見出させる。そこでキャラクターが行動すると、行動の結果変化した事象がさらにキャラクターに動機を抱かせる。

ここに、動機と行為の相補的な関係が見えてくる。つまり、動機を持っているからこそどんな行動をすればいいのか明確になり、行動したからこそその行動の主がどんな動機を持っているのか明確に示されるという関係だ。このようにして、動機と行為はお互いを強化しながら連なっていく。

これはそのままキャラクターとストーリーの相補的な関係、内的問題と外的問題の相補的な関係だとも言える。キャラクターがしっかりと立っていれば、ストーリーもまたキャラクターにとって必然のものになるだろう。またストーリーが強烈であれば、キャラクターはそこで試され強く成長するだろう。

ロバート・マッキー著『ストーリー』ではこれを別の視点から捉えてこう記している。ちょっと前振りから書き起こすので長くなるが読んでみて欲しい。

ストーリーの本質とはなんだろうか。
他の芸術分野なら答えは明らかだ。作曲家は楽器と音符で曲を奏でる。[...]すべての芸術家は作品の素となるものに手を触れることができるが、作家だけは別だ。というのも、ストーリーの核にあるのは「本質」だからだ。[...]
「でも、ことばがあるじゃないか。[...]作家にとっての原材料は言語だろ」[...]言語はストーリーテリングの数ある媒体のひとつにすぎない。ことばよりもはるかに重大なものが、ストーリーの奥底に息づいている。
(ロバート・マッキー著『ストーリー』 P164, 165)

本章の冒頭で投げかけた問いの答えはもうわかっただろう。ストーリーの本質は言葉ではない。机上で思い描いた人生のイメージや感情を表現するためには、明晰な文章でないといけないが、ことばは目的ではなく、手段であり媒体だ。ストーリーの本質は、ある人がアクションを起こして、その次に起こると思っていることと、実際に起こることのあいだに生じるギャップ、つまり予測と結果、可能性と必然性の間の隔たりだ
(ロバート・マッキー著『ストーリー』 P217)

ここではストーリーの本質がギャップであると言っている。ただそのギャップがどのように連なっていくのかという点に注目すると、そこには予測し、行動し、結果が得られるという連鎖があると分かる。デカい口をたたくようだが、マッキーの論と先に自分があげた「動機と行為の相補的な関係」は、物語がどのように連鎖するのか、という視点をどの断面で切り取っているのかの違いでしかない。

また、この動機と行為の相補的な関係は、抜群に面白い物語の中だけにあるわけではない。この章の冒頭にも書いたように、この構造は「どんなシーンを切り取ろうが物語には外的問題と内的問題が潜」み、「私たちは内的問題と外的問題を無意識に整理することによっていくつかの事象を物語として把握する」。

まあ動機が行為を導き出すという考えは、若干こう人間の理性を過信している嫌いもあるが、むしろそのように捉えてしまう、というのはありうる考え方だと思う。

例えば慶應義塾大学の前野教授が言及している「受動意識仮説」とかはそういう考え方だ。(確か、人間に意識なんてものはなくて、適当に動いているだけのものを脳が後から再編してそこに筋の通った意識があるかのように思わせているだけ、みたいな話だった気がする)

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説 - YouTube

若干話はずれたが、そんな感じに、物語の最小単位としての外的問題と内的問題があり、それが連なることで物語が出来上がっているんじゃないか、と森田は考えている。

まあ割と突っ込みどころもあるかも知んないんですけど、こんな感じです。以上。