親です。

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インターネットで創作論を語るのはダサい:訂正版

おつです。 「インターネットで創作論を語るのはダサい」っていう記事を書いたんですが、内容がよくないなと思ったので、そこらへんをまとめます。ほぼ日記。


【目次】


元記事

まずは元記事から。

創作論を語るのはダサい

創作論を語るのはダサい。

これ、Twitterのタイムラインでちょいちょい見て、分かるなー、けど俺は面白いからやっちゃうんだよなーと思ってた。ダサいって思われる理由って多分、創作論する人が面白い小説書いてない問題とか、書かずに創作論ばっかりやってんのが逃げだろって話とか、そもそも創作論の内容が低レベルすぎてつまらないとか、脚本術の話とかが鑑賞行為に水をさしてるとか、そういう感じだと思う。

分かる、すごく分かる。全部これ思ってます俺も。でもその一方で俺は脚本術が好き。すげー恥ずかしいなと思いながらもやっちゃってるんだけど、これだけの恥を乗り越えてやってしまう創作論、どこが面白くてやってんのか一回まとめとこうと思います。

脚本術・創作論のどこが面白いのか

面白さ、について考えるのは面白い

物語がなぜ面白いと言えるのか、面白いとはなんなのかということについて考えること自体が面白い。なんで自分はいま面白いと感じたんだろう? と遡って、感覚を理論に落とし込めた瞬間が気持ち良い。

面白い、というのは主観だし、自分の身ひとつあれば心理学でいう内観法的に面白さの根元に潜っていけるのもポイント。手軽に始められて常に楽しい趣味。小説かけなかったころ線形回帰のこととか勉強してめっちゃ楽しかったんだけど、あれは延々自分の頭の中で証明について考え続けられたのがよくて、脚本術もそれができて嬉しい。

文学について考えられる

脚本術をやってると、物語と小説の違いが浮き彫りになる瞬間がある。例えば文章とか演出技法とか。俺は一旦脚本術を経由して、作る側の視点を取ってからでないと文学について取り組めない人間だったので、脚本術によって文学させてもらう機会を得ているなと思う。

なぜ漫画や映画ではなく小説を書くのか、ということについても考えられる。二次元や三次元のメディアをなぜ選ばないのか、これにちゃんと答えられる文字書き、意外とあんまり見ない。

あとどう書くのかって視点は文学的にも全然ある視点の持ち方なので、そんなに恥ずかしく思うこともないと思う。

日本小説技術史 - Amazon

インプットの効率が上がる

技術について考えることが多くなると、漫然と小説を書いていた頃と比べて問題の細分化ができるようになるし、普段から何か見たり読んだりしていても得るものが多い。インプットの効率が上がる。まあこれは脚本術自体の効能というか、それを通じて小説について整理する力がついたという話だと思う。

創作論なんてやらずにアウトプットせえやってのも分かるが、俺は脚本術をやりつつアウトプットするのが合ってました。自分で全て考えるのも楽しいんだが、枝葉末節についていちいち考えるのも大変なので、最近は気になってるポイントについて書いてありそうな本をさっさと買って確かめている。

作品鑑賞の視点が持てる

作品を鑑賞していてこころ動かされるのと別に、作家の技術に感嘆することがある。こういう楽しみが増えるのもよかったポイント。

野暮なことが言える

申し訳ないんだが、野暮なことを言いたいだよな俺は。俺は小説なんてどれも同じに見えると思って書き始めた人間なので、物語を神聖視している人に対して冷や水を浴びせるために書いている面もある。意地悪だけど。

最後に

というわけで脚本術や創作論、ダサいと思われるのも分かるんだけど面白いので、語りたい人は語ってね〜〜と思う。

まあでもひとつ言うとするなら、創作論について語っている内容自体が面白くないってのはどうにかしたくて、そのためにいろんな作品を見たりして、ここでもこれが使われてる! みたいな引き出しの多さだけは確保しておこうかなって感じ。

脚本術とか創作論はどっちかというと評論的なジャンルで、評論に面白いものと面白くないものとがあるように、創作論にも面白いものと面白くないものとがあるのは当たり前。創作論を語るのがダサいというか、つまんない創作論を語るのはそりゃまあ滑ってんだからダサい。色々考えて新しいネタについて語れるといいなと思う。

以上。

記事を書いた経緯

経緯としては元記事にも書いてあるが、

創作論を語るのはダサい。
これ、Twitterのタイムラインでちょいちょい見て、分かるなー、けど俺は面白いからやっちゃうんだよなーと思ってた。[...]すげー恥ずかしいなと思いながらもやっちゃってるんだけど、これだけの恥を乗り越えてやってしまう創作論、どこが面白くてやってんのか一回まとめとこうと思います。

というもの。加えて、タイムラインにいる人への「俺はダサいって分かってますよ」という目配せがある。

悪かったところ

この記事の概要を表面的にさらうなら「創作論がダサいというのは分かってるんだけどこういう面白さがある」というもの。
ただ、実際にダサいかな? って思いながら創作論を勉強したり発言したりしている当事者からしたら、「創作論はダサいし、ましてや創作論の意義を語れない・面白い創作論を語れないやつはカス」という受け取り方になる。
単純にこの後者のメッセージがよくないし、この二重性が異論の封じ込めになっててタチ悪い。

問題点1:「創作論はダサい」=「俺の(お前の)創作論はダサい」

ダサいって思われる理由って多分、創作論する人が面白い小説書いてない問題とか、書かずに創作論ばっかりやってんのが逃げだろって話とか、そもそも創作論の内容が低レベルすぎてつまらないとか、脚本術の話とかが鑑賞行為に水をさしてるとか、そういう感じだと思う。
分かる、すごく分かる。全部これ思ってます俺も。でもその一方で俺は脚本術が好き。すげー恥ずかしいなと思いながらもやっちゃってるんだけど、[...]

ここ、ダサいと思われる理由を列挙した後で、「恥ずかしいけど面白いからやってます。」とやっている。恥ずかしいということを前提として扱っている一方で、個人の話として扱うことで「恥ずかしいか否か」というところに焦点を当てさせないようにしている。
個人の態度のようで「最後に」のところとかはべき論になっており、こういう封じ込めは論法として卑怯。

問題点2:「こういう面白さがある」=「意義を提示できないなら語るな」

なぜ漫画や映画ではなく小説を書くのか、ということについても考えられる。二次元や三次元のメディアをなぜ選ばないのか、これにちゃんと答えられる文字書き、意外とあんまり見ない。
あとどう書くのかって視点は文学的にも全然ある視点の持ち方なので、そんなに恥ずかしく思うこともないと思う。[...]
創作論にも面白いものと面白くないものとがあるのは当たり前。創作論を語るのがダサいというか、つまんない創作論を語るのはそりゃまあ滑ってんだからダサい。

(随所に見える「俺はお前らとは違う」というアピール)

「恥ずかしいけど面白いからやっています。」というのは正直マウントをとっていて、「俺にとって創作論には意義があるから恥ずかしくても創作論をやる」というのは「創作論に単なる創作Tips以上の意義を見出せないお前の創作論は恥ずかしい」ということ。「俺にとって意義がある、面白さを提示できる」というのがマッチョな態度にすぎず、面白いよ〜〜と他人にものを語る姿勢ではない。
だから読んでてムカつく。

どうするべきだったか

これ、卑屈な下心から記事を書かずに、「ダサいって思う人もいるけどこんな面白さがあるよ」と書いてしまえば良かったと思う。好きなんだから。こういうすり寄り方されてもされる方も困るだろうと思う。
この、自分の後ろぐらさを把握できずに他人にかぶせてしまう、みたいなのはやりがちなので気をつけたいなと思った。素直がいちばん。

再び「最後に」

というわけで、謝るべき人には直に謝ったんだけど、他にも嫌な気分になった人がいたら本当すみませんでした。
創作論とか脚本術とかの界隈、創作界隈と近いようで遠いから妙なスタンスを取りがちなんだけど、何か作るのが好きな人がいるように分析するのが好きな人がいるのも自然なことだと思う。外から見たら「なんで?」ってなるかもだけど、そもそも創作だって世間から見たら「なんで?」って趣味だ。コアな趣味持ってると外から疑問投げられがちなのは残念ながらよくあるので、まあ元気に好きなことをやっていきましょうと思いました。

一旦以上。