親です。

読んだ本とかについて書いてます

1ヶ月経ちました

どもっすmaximonelson49です。育児休暇1ヶ月終わったので、思ったことまとめ。

 

 ①子どもについて

・子どもについて
子ども、だいぶ大きくなった。四キロ。重いから抱っこ筋がよく筋肉痛になってる。
ときどき声を出す。自分で首持ち上げたりする。んで、持ち上げたはいいが支えきれずガクン、と頭打ち付けてる。

肌荒れとかは心配してたより全然なかった。親二人が敏感肌で、石鹸使うとむしろ荒れるほうだったので、沐浴をお湯のみにしてた。のが奏功したのか。
あとはおならをよくしててかわいい。ぶうぶう。

まーほんと、風邪とかもひくことなく1ヶ月過ごせたのは良かった。ミルクの量とか、回数とか、夜中ぐずぐずするとか、そういうのはまあ悩んだけど致命的なものではなかったし、安らかに新生児期を過ごせたと思う

まーそれが出来たのは①育休②妻③妻実家始め周囲の支援
というかんじ。明日の朝を気にしなくていいのは、正直でかい。

 

②仕事について

・仕事について
というかんじに、育児(と休み)に重点を置いた1ヶ月だった。一方で気になるのは仕事のこと。このペースで一年過ごして、単なるブランクを作って仕事に戻るのも、正直不安だし。

そこらへんは義父が気を配ってくれていて、簡単な仕事を回してもらえるそうな。これ結構受け身になっちゃってて申し訳ないなと思いつつ、うんまあ受け身。今は家で仕事できるように光回線の工事とか手配してるだけ。あとデッケエ作業デスクを買ってもらった。ごてんとうち。

仕事については、妻ともよく話しときたい。お金稼ぎと、家庭生活のバランス。ふたりでどれくらい働くのか。どっちがどれくらい働くのか。

 

③夫婦のこと
で、気になるのが夫婦関係。出産前後ですげえ喧嘩してて、なんとなくその傷が癒えないままきちゃってるかんじあり。仲良くしたい。自分たちのこと、どう考えているのかよく話し合いたい。

家庭の問題、お金の問題について私たちは利害関係者で、これは協力関係であらねばやってけねーんだが対立しそうで話せてなかった。被害食らわせてきてんだろと言いたげな俺の姿勢もあったし。

 

 最近はあんまりものを考えなくなってきてしまったので、頭働かせていきたいです。以上。

 

育児休暇入ってから思ったこと

11月の頭から1年間の育児休暇に入ったんで、入ってみての所感。

 

①子どもの様子について

産まれてからなんとなくずっと思っていたのだが、我が子はたぶん特別に顔の出来が良い。小顔だし、パーツがいい感じに揃ってる。あんまりかわいいもんだから新生児の画像をGoogle検索してみたんだが、やっぱりほかの子と比較しても可愛かった。病院でも助産師さんに綺麗な顔ねえと言われてた。

あとはほんと、何から何までが小さい。ミニチュア。手足の指がすげえつるつるしてる。声もなんだか我が子は甘えた感じでかわいい。配慮がある。肌が綺麗ってレベルじゃねえ。透き通るような肌でもなくて、実際透き通ってる。特殊フィルムかな?

・しぐさ

今産まれてから3週目くらいなんだが、いわゆるジェネラルムーブメントと言われる、四肢をうねうね動かす運動をしている。新生児は2ヶ月目くらいから意志を持って行動し始めるというから、現段階ではこういう自動的?な動きがメインになる。他にも原始的な反射の一種であるモロー反射も確認できた。これは頭の支えを急に外されたり、大きな音がしたりしたときに、両腕をばっと出して何かに捕まろうとする反射だ。めっちゃやるしモロー反射で目を覚ましたりもする。

・コミュニケーション

いわゆる「コミュニケーション」らしいものはできないが、それも当然。まだ目や耳などの感覚器官が発達していないし、喉の構造も大人と新生児では全く違う。

コミュニケーションというと人と人との会話、意思疎通みたいなものを思い浮かべると思うが、もう少し広い視野から考えてみると、コミュニケーションは外部の世界と関わる方法の一種といえるだろう。現段階でうちの子は、上記のように目や耳などの感覚器官には頼らず、もっぱら触覚中心に生きている。それは例えば肌と肌とのふれあいだったり、抱っこされているという感覚だったりなんだろう(なので、そういう感覚に訴える感じであやしたりもする)。フロイトの発達理論ではこの時期を口唇期と呼ぶが、まあほんとうにそうだよなと思った。

また、ここからどんな風に我が子が世界との接続を行なっていくのか、すごくわくわくする。

・変化

顔がすげえ変わる。出産直後は出目金みたいな顔をしていたんだが、2時間後にはもう目が頭部に引っ込んでた。出産時に頭蓋骨がキュッと小さくなって、産後にそれが本来の位置に戻ったためにそうなったのかなと思う。

また最近肉付きがよくなってきて、腕がちぎりパンぽくなってきた。ミルクたくさん飲んで大きくなってくれよなと思う。

あとうんち。この世初めてのうんちは岩のりみたいな色をしていた。匂いをちゃんと嗅ぎ忘れたのが後悔。その後はマスタード状の黄土色したやつを出すようになった。匂いはフルーツグラノーラ糖質カットのやつとどこか似ている。最近は臭いやつをするようになってきた。

あと、赤子はミルクのいいにおいがする。

②子どものお世話について

お世話は3時間ごとのミルクと寝かしつけくらい。最初は抱っこもならなかったが、2日目くらいでなんかできるようになった。その後も妻に抱っこの仕方を教えてもらったりした。

良い抱っこは、脇をゆるく締めた状態でヒジの内側に赤子の首を乗せること。んで、赤子のお腹と自分のお腹を密着させる。これはおっぱいあげる時の姿勢らしい。赤子は触覚中心なので、密着感は大切。

あとおくるみ。くるんでしまえばだっこのしやすさはかなり上がる。

その他得た知見としては、赤子の泣き止ませ方。これはマジで効くんですけどスクワット。スクワットするだけでかなりのケースは泣き止む。ただしちゃんとしたやり方をしないと膝を壊すので注意。

・夜間シフト制

夜間は20時-3時、3時-10時のシフト制とした。最初は赤子担当はベビーベッド の脇で椅子に座って待機している感じだったんだが、のちに腰を壊すと分かったため待機スペースにも布団を導入した。合わせて部屋の模様替えも行なって、部屋がかなり有効活用できてる感じになった。

③妻について

・産褥期

産褥期にもかかわらず家事させており、大変謝った。産後2週間くらいはいわゆる絶対安静で、トイレ以外は立ち上がることすらしてはいけないらしい。産後を夫婦のみで過ごす家庭は、夫がここら辺甘く見てないか確かめてもいいかもしれない。甘く見るような夫は俺だけかもしれないけど…。まあそれか里帰り出産か。

・その他

最近は子どもの顔ばっか見てるので妻の顔を見て話したりすることが少ない。コミュニケーションとらずに家庭を運営するのはまずもって不可能なので、赤子寝たタイミングで今後のこととか色んなことはすり合わせとかなきゃなと思う。

また、私たち夫婦は映画とかを通じてコミュニケーションをとっている節がある。映画に対してどんな感想を持ったか、みたいなので相手を理解してきた。子どもがいると一緒に映画は見に行けないけど、Netflixとか使って、同じものを消化していきたいなあと思う。こういう精神の毛づくろいみたいなのって大切だ。

あとは、体調の良いときを狙って、外に出て気分転換してもらうなど。これは俺も含めて。

④親戚について

・妻実家メンバー

赤子の顔を見にきた。みんなで可愛がっていった。義父はすごく冷静! みたいな感じで自分は抱っこしなくていいよと最初言っていたんだが、帰り際に抱っこしてもらったらすごい可愛がっていた。

また義母が何度かご飯を作りにきてくれたりして、これはめちゃくちゃありがたかった。ほんとうに助かった。美味しかったし。

・うちの実家メンバー

実家が遠いので写真だけ送った。元々絶縁気味なのでどうしようか思案中。交流持ってもメリットが特にないし面倒が起きるだけなので交流したくないんだよな…と思う。

⑤仕事について

・会社

会社はスムーズに休業に入らせてくれた。各種書類も送ってある。今後やることはない。復職前に一度面談するくらいか。

・バイト

親族の会社でお手伝いをさせてもらう。まあ仕事にブランクができてしまうと大変だからってことなんだが、めちゃありがたい。FileMakerで開発やります。あとWebデザイン系のこともするかも、とのこと。

⑥自分自身について

・メンタル

休業前はメンタルが絶不調だったんだが、休業してからはけっこう健康的になってきた気がする。が、ちゃんと振り返りしとかないとまた繰り返すと思われる。カウンセリング、続けるかは思案中。

・今後の生活

妻の産褥期終わるまでは育児中心の時々勉強みたいなふうになると思う。1ヶ月検診終わったら、バイトを時間決めて入れていく。子どもができると、金なくても最悪極貧生活すりゃええかともいかないし、仕事は仕事でまじめに考えなきゃならない気がしてきてる。どんくらいの時間働いて、どんくらい稼ぐのか、ここは妻とも握っておきたいところ。

 

全体として育休はとってほんとうに良かった。つーかとらないと生活回らなくね?

以上!

 

少し前に高田ゲンキさんバズってたけど

ちょっと前に高田ゲンキさんがツイッターでバズってた。んで、彼の発言に関して腑に落ちないところがあったのでメモっとく。

 

高田ゲンキさんの痴漢ツイート

 くだんの高田ゲンキさんってのはこちら。

高田ゲンキ (@Genki119) on Twitter

投下していたのは痴漢についてのツイート。概要としては男が思ってる以上に女性は痴漢被害・性被害受けてるよってもの。女性側からしたらよく知られた事実も男性側からすると驚きだった。俺も妻と付き合う前まで痴漢やら性被害の実際については全然知らなかったので、驚く気持ちは理解できた。んでかつ高田ゲンキさんが言ってたのは、それは男も他人の問題としてでなく声あげようよ、みたいなもの。これに対してはざっと見る限りポジティブな反応が多かったかと思ってるんだけど、「被害者でもない人間が偉そうな発言をするな」的な批判もあったようだ。

で、俺が今回取り上げたいのは、その部外者批判に対する高田さんの反論。

 まあこの「気楽なもんだ」的な元ツイートを読んだことがあるわけではないので厳密な議論の流れは分からない。

俺としては高田さんの発想も理解するが、この反論の仕方は自己否定的だなと思う。ここでは相手の考えが何故発生しているのか傾聴するとか想像力働かせるとかしてフォローしつつ引用するべきだったのでは? と思う。

っつーのは、これ高田さんへの批判の論旨は「部外者として発信できて気楽なもんだ」=「我々にとってこの問題は社会の問題であると同時に非常にナイーブな個人の問題でもあり、そこは切り離しようがない」と言っているわけである。

そこに対しての高田さんの反論は「社会の問題」として焦点化した時に「気楽だな」という批判は社会の変化を阻むからやめろ、というものだった。

まあつまり、ここで繰り広げられているのは、「社会の問題」としてだけ扱いたい高田陣営 vs 「社会の問題」であり「個人の問題」でもありそこは切り離せない被害者陣営の戦いなわけだ。

で、この痴漢の問題について個人的な感情を切り離せねーって言われたら、それはもう否定のしようもない。だってそう感じるんだから。感じるってのは事実だ。

そしてそう言ってる人に「いやけど、切り離したとしたらさ…」と話を進めるのは誠実じゃなくないすか? と思う。

さらにツイートを追うと、

(引用の仕方見づらくてすんません)

 高田さんもそこらへんは分かった上での発言のようだ。「切り離せない」なら俺の発言自体を切り離してくれ、と言っている。こういうスタンスは、発信行為があくまで"つぶやき"ですよと担保されている(かのように見える)ツイッターではちょいちょい見られる意見だ。お前が俺のツイート見にきてるんだろ、誰も頼んでねえんだから見なくていいよ、みたいな。嫌なもん見ちゃったなーで終わってくれよ、お前の苦しみはお前のもんで俺には関係ない、俺には発言の自由があるんだから、みたいな。

 

んで、俺はここでうーんとなっちゃうんですよね。俺とお前の語りたいものは違うよ、だから違和感抱くなら切ってくれよ、ってのはある程度分かるんだけど、そこまでだな、うーんとなる。全然発展性がなくてこれも新自由主義の限界点的なものだと思う。なので、実はまだ語られていない論点があるように思うし、それが出てきたらありがたいなってのが感想だ。あとはなんつーか、社会問題を扱うってのは他人の責任を負うことだから、他人の心の問題引き受けるくらいの精神的余裕は持ってくれよなとも思ったりした。

以上。

乳幼児の権利に関する論文読んだ

『乳幼児の意見表明権とその実施に関する一考察 ーJ.コルチャックの権利思想を基としてー』

という論文を読んだ。なぜ赤子は涙を流さず泣くのか? について調べてたらこの論文がヒットして、結局涙なしで泣くことについては何も書いてなかったんだけど面白かったのでまとめる。

ざっくりとした内容としては

「乳幼児はただ泣くばかりで主体的な存在ではないよね」という一般的な認識があるけど、「子どもの権利条約」ではそれが否定されてますよ。その点に関して、コルチャックっていうポーランドの小児科医・孤児院経営者の思想を元に解説するよ。

というもの。下記に論文の内容をまとめ、思ったこともメモする。

『乳幼児の意見表明権とその実施に関する一考察 ーJ.コルチャックの権利思想を基としてー』(2007 小田倉 泉)

意見表明権」の意味の移り変わり

 タイトルにもある通り、この論文では「意見表明権」って権利が中心的な概念となる。この意見表明権の意味するところが変わっていくんだよ、というのがこの論文のひとつめの要点だ。んじゃ当初はどんな意味を持っていたかというと、それは「子どもの権利条約(1989年)」にある。

本条約の特徴的な権利である「第12条 意見表明権」に関しては、「①自己の意見を形成する能力のある児童」の表明する意見が、「②その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」もの

 (①②の番号については俺が勝手に降ってます。)

まーざっくり言うと「子どもはどのように生きたい、何をしたいしたくない、みたいな意見を言う権利があり、それは大人も考慮に入れなきゃダメだよ」ってな感じ。

ただここで注意したいのだが、当初この「意見表明権」については、比較的高い年齢の子どもが想定されていたようだ。実際、「意見」を表す英単語も条約の審議過程でopinion,wishesなどの表現からviewsに統一されており、①で示された「自己の意見を形成する能力のある児童」が比較的年齢の高い児童を意味するのではないか、と指摘されている。

 「view=高度な意見」を未だ形成し得ない乳幼児の「意思、意向」は、その対象外となる。

 そして、この解釈はのちに覆される。2004年に提出された「乳幼児期における子どもの権利の実施」と題された勧告や2005年に発表された「一般的注釈 第7号」では、乳幼児が子どもの権利を全て享受しうることが明記された。つまり、意見表明権の範囲が乳幼児も含むと断言されたわけである。

 乳幼児の「意見表明権」とコルチャック先生

乳幼児にも意見表明権があるよ、という文章を読んだとき、僕は「へーそれってナイスなことだね」と思う一方で「けどどうやって?」とも思った。正直、かつての「子どもの権利条約(1989年)」の方が感覚として理解しやすかった。なぜなら、乳幼児はまだ複雑な思考もできないだろうし、それに喋れもしないから。

じゃあ乳幼児にも「意見表明権」は保障されなきゃダメってのはどういう意味なのか? というのを、この論文ではコルチャック先生の思想から読み解いている。

寡聞にてコルチャック先生のことは存じ上げなかったんですけど、戦前のポーランドで孤児院をやってたユダヤ人の小児科医で、第二次世界大戦強制収容所にいれられて亡くなっている。wikiには「児童の権利という概念の先駆者」ともありますね。戦前の人なので「子どもの権利条約」に直接的な影響を与えたわけではないんだけど、まあそういう人。一応wiki貼っとく。

ヤヌシュ・コルチャック - Wikipedia

 で、以下では先ほどの疑問に対してコルチャック先生の思想から回答が与えられる。疑問というのはふたつーー①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの? ②発話のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?--である。

①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?

この人は子どもの「3つの基本的な権利」をあげている。ひとつめが「子どもの死に対する権利」ふたつめが「子どもの今日という日に対する権利」みっつめが「子どもがあるがままでいる権利」だ。

ひとつめのインパクトが強すぎて論点がずれそうなんだけど、ここで重要なのはふたつめ、みっつめ。簡単に言うと「目の前の乳幼児自体を尊重することが大切やで」というような話。詳しくは下に書く。

⑴今日という日に対する権利

[...]ついに明日がやってきたとき、われわれは次の明日を待ち始める。というのは、基本的に、子どもがまだ存在せず、やがて何者かになるであろうと、子どもは今は何も知らないが、やがて知るようになると、今はできないがやがてできるようになるのだという、このような考えは、絶え間ない期待を強要するのである。

人類の半分はあたかもまったく存在しないようである。その生活は冗談であり、その奮闘は初心なものであり、その感性は移ろいやすいものであり、その意見はおかしなものである。

子どもは考える。

『ぼくは何者でもない。おとなだけが何・者・か・なのだから。ぼくはちょっとだけ今は大きくなった。でもまだ、何・者・でもない。あとどのくらい待てばいいのだろう。……』

われわれは彼らに明日の人間という重荷を背負わせている一方で、今日を生きる人間の権利を与えていない。

(『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

まあよくある話だと思うけど、「大きくなったらわかるよ」とかそういうのアカンのやで、ということ。子どもの意見が「子どもっぽく」(という表現自体が物語るが、)思えたとしても、それを理由にけなすことは許されない。子どもは子ども時代特有の、その「今」における気持ちや欲求を語るわけであり、それは簡単に受け流されてよいものではない。

⑵あるがままでいる権利

子どもが歩き始め、話し始めるのにふさわしい時期はいつなのか。それは、彼が歩き始め、話し始めるときだ。いつになったら歯が生え始めなければならないのか。それは歯が生え始めるときだ。……赤ん坊は、彼にとって寝ることが必要なその時間に眠らなければならないのだ。

もし従順な『良い』子が突然いうことをきかず反抗的になったら、子どもがあるがままの本質を現すことに腹を立てるべきではないということも覚えておくべきである。

 (『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

正直この⑵「あるがままでいる権利」と⑴「今日という日を生きる権利」の違いが判らないが、こんな感じ。つまり「①複雑な思考のできない乳幼児の意見表明権ってなんなの?」の答えとしては、複雑な思考ができずとも、それはそれとして乳幼児の意見は尊重されるべきでしょ、ということである。

②発話できない乳幼児の意見表明権ってなんなの?

はっきりしない未完成の言葉の意味を言い当て、その子供のはっきりとしない最初の言語を理解したときに感じることのできる喜びはどれほど純真なものだろうか。[...]では、涙と微笑みの言語、二つの目と唇の形の言語、身振りや吸い付き方の言語は?

赤ん坊は、顔の表情という言葉で、印象と感情の記憶という言葉で話しているのである。

 (『子どもをいかに愛するか』J.コルチャック)

ここではわりとはっきり語っている。発話できなくても、乳幼児は身体全体を使ってメッセージを送ってるってわけですね。この「身体全体」という点はさきほどの「⑵あるがままでいる権利」と非常に近い。私たち大人は人のコミュニケーションを会話によって行うが、こどもは身体全体を使って行う。であれば、私たちは私たちのコミュニケーション方法を前提として子どもを見るのではなく、「あるがまま」の子どもの姿を見る必要があるのではないか。ということ。

(話がずれるけど、世界と交流する方法にはいくつかの段階があると発達心理学でも勉強する。シェマと言って、最初期は唇をつかって世界を理解していく)

んで、この「あるがまま」を見る、という大人側の姿勢が、乳幼児のコミュニケーションには必須であるとも論文には記述されている。

おとなと協同実施する意見表明権

以上で、一見ピンとこない乳幼児の意見表明権について、どんな意味なのかまとめた。「複雑な思考」ができなくとも乳幼児の意見は尊重されるべきだし、「発話」ができなくっても身体全体を使ったコミュニケーション方法を「あるがまま」に受け入れる必要がある、ということだ。

んでまあここで分かるのは、乳幼児の意見表明権は乳幼児ひとりでは権利行使できないってことですね。乳幼児の意見を受け止めるおとながいて、初めて権利が行使される。なるほどねーってかんじでした。

感想 

 以下はこの論文を読んでの感想。

・コルチャック先生の思想を元に乳幼児の意見表明権を紐解いているけど、子どもの権利条約をつくった人たちの認識ではどのような感じなんだろ?

・子ともと大人は対等です!と大人側が言ってしまうことへの抵抗がかなりあった(新自由主義的で)が、大人が協同実施するという考え方がそこに対してのアンサーになっている感じがして、協同実施についてはもう少し考えたい。

・おとなが乳幼児の意見を聞きとる、みたいなことをするのは、実際問題むつかしいのでは? とも。結局おとなの考える乳幼児、みたいなものしか上がってこなさそう。結局おとなフィルターがかかっているのにそれが乳幼児の意見のように扱われるのはどなのかなーと。運用でだいぶずれが生まれちゃうから、実用に耐えない思想だな…とすこし思ったり。

 ・この論文2007年のだからもっと考察進んだ論文が上がってそう。

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以上ですー。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』を読んで

どうもmaximonelson49です。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』という本を読んだよ。

『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち』

 とりあえずAmazonリンク。

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち (シリーズ ケアをひらく)

 

 最初に言っとくと、すげえ面白かったし、読みやすかった。書いた人はDARCっていう依存症ケアの施設で働いてる上岡さんと大嶋さん。上岡さんは自身も薬物依存の当事者だ。

ちょっとだけDARCの説明を引用すると、

ダルク(DARC)とは、ドラッグ(DRUG=薬物)のD、アディクション(ADDICTION=嗜癖、病的依存)のA、リハビリテーション(RIHABILITATION=回復)のR、センター(CENTER=施設、建物)のCを組み合わせた造語で、覚せい剤、危険ドラッグ、有機溶剤(シンナー等)、市販薬、その他の薬物から解放されるためのプログラム(ミーティングを中心に組まれたもの)を行っております。 

【日本ダルク】薬物依存症におけるあらゆる問題を統括的にサポーするオールインワンの統合施設です。

と公式サイトにある。薬物依存に限らず、なにがしかの依存症に対してケアを行う施設ってことだ。国内のこういう施設だと真っ先に名前があがるところで、俺も中学生のときDARCの方がきて薬物ダメだよ〜〜の講演をしていった覚えがある。

んで、ざっくりこの本の内容を書いてしまうと、DARCとかの施設でケアを受け、そして施設を出た「その後」の人々について描かれたもの。帯でも

トラウマティックな事件があった 専門家による援助が終わった その後、彼女たちはどうやって生き延びて来たか。

 と記されており、そういう意味でその後を描く。

私たちはなぜ寂しいのか

全編面白かったのだが、とくに面白かったのが第1章の『私たちはなぜ寂しいのか』だ。

ここでは「応援団」「境界線」という考え方を持ち出して、「家庭に問題がないわけじゃないのに問題をそこそこ乗り越えていっている」人(依存症でない人)が依存症にある人とどのように違うのか? を説明している。

応援団について

(依存症でない人は)観察してみると、どうやらそういう人たちは家族内だけで問題を解決するわけではなく、外側に応援団をもっているように見えました。

[...]たしかにまわりにいる家族が信頼できて、家族だけで解決できればいいけれど、大きな問題になればなるほど、家族だけで解決できなくなります。誰かが外にSOSをだしたり、おそらく家族以外のところともつながりながら、乗り越えていくものだろうと思います。

[...]会社でイヤなことがあったりしても、自分のコミュニティに帰ってきたら、そのなかに自分の価値を見つけられる。(P16,17)

 まあ要するに、自尊心の根底みたいなものを守るものとして「応援団」があるってことみたいです。重ねて重要なのは、家庭内の大きな問題が家庭内で完結せず、外部とうまくコミュニケーションが取られながら解決されること。なぜ外部の介入が必要になるのかというと、家庭内で解決しきれないような問題は、当然子どもにも影響を与えるから。

次に、「境界線を壊されて育つ」とはどういうことなのかについて説明します。

[...]父とおばあちゃんがすごく仲がよくて、母はその関係のなかに入れなかったので、お嫁に来ても不幸だったんですね。私は三歳ぐらいから不幸な母を背負ってきました。今でも母は「ハルエは三歳からホントに役に立った」と言います。でも三歳から頼りになっちゃいけないわけですよ(笑)。(P20)

ここで言われているように、基本的に子どもは誰かに面倒見てもらって生きることこそあれ、他人の面倒をみたり他人を背負って生きるものではない。このように他人の世話をしながら生きるというのは「境界線を壊されて育つ」ということになる。

境界線を壊されて育つとは

 回復というのは、他人を優先していたことが「自分を真ん中にして考える」ことへと変わっていくことです。特にボーダーラインとよばれる境界性パーソナリティ障害の人ほど他人を中心にしています。彼らは自分中心の極みのように思われていますよね。でも違うんです。真ん中に「自分」じゃなくて「他人」がいる人たちなのです。

(P18)

 人はみな、自分自身のためにしか生きていけない。自分が悲しく思えば泣けばいいし、嬉しければニコニコとすればいい。が、他人の世話をするというのは他人の気持ちに寄り添うということだ。

他人の気持ちに寄り添うってのは、字面だけ見ればとてもよろしいことに思える。しかし家庭環境が不安定な状況下では、他人の気持ちに寄り添うことは自らが望んだものではなく、これはもっと切実なものだ。だって自分が頑張らなきゃ、家庭が崩壊してしまうのだから。そういう切迫感とともに生きている。

幼い頃から他人を背負って生きる人々が、何を感じるようになるか。自他の境界があやふやで、他人の責任を取ってきた人々は、自分が感じる気持ちがほんとうに自分のものなのか、それとも他人のものなのか、分からない。そもそも、そこに区別があることすら分からないかもしれない。

お父さんとお母さんの問題を自分のものとして背負っているので、いつもお父さんとお母さんの痛みも感じている。そうすると、やがてそれが自分の痛みなのか、お父さんお母さんの痛みなのかがわからなくなるんです。このことを自助グループで言うと、みんな「そうそう」と共感しますね。そういう区別のつかなさみたいなものが、大人になってもずっとある。(P27)

 そうなると、どうなるか。他人の痛みを感じとると、まるで自分のことのように感じてしまう。すごく助けなきゃと思う。

んで、助けなきゃって思うような相手って、端的にいって人からケアが必要な人なんですよね。だからこういう人ほど誰かにケアしてもらえず、ケアする側に回りがち。単にケアするだけならまだいいけれど、トラブルの多い人(ヤクザ屋さんとか)と付き合ったりしてしまうと、もう大変。そこから薬物につながったりもある。

んで、寂しさ

 こういう自他の境界があいまいな人が、(言い方はアレだけど)普通の人と付き合うとどうなるか。今まで密着して他人の意図を汲むことが愛情だと思っていたから、普通の人を相手にすると遠く感じて、「寂し」いと思ってしまう。相手と重なり合うような(自他の曖昧な)関係を求めてしまう、というわけ。

 その他のこと

 寂しさについてはこんなもん。これだけでも十分面白いんだけど、他にもマジで面白い内容たくさん。下記にメモ。

①支援者側のスタンス、自傷されたときの対応
②からだと薬物
③薬物が精神の均衡を守っている
④虐待されている人がより弱い人を虐待してしまう、ということがある

あと、ここら辺のこと俺もブログにまとめてるんで、まあよかったらちょっと読んでみてくださいよ。ちょっと分かりにくいかもだけど。

優しさと責任範囲について - 今から父になるから俺の悩みを聞いてくれ。

 

はい、これで今回はおしまい。マジでこの本面白かったから読んでくれよな。

カウンセリング行ってきた

おつです。maximonelson49です。カウンセリングに行ってきたので雑に感想を書いておく。

 

感想 

先にどんなところでカウンセリングやったのかだけ書いとくけど、近所の大学の心理相談室でやってもらった。50分間のカウンセリングで、料金は安い飲み会一回ぶんくらい。普通にカウンセリングを調べると¥12,000とかのそんだけ金あったら悩みもクソもねえだろみたいなカウンセリングがヒットするんだけど、大学でやってる心理相談室は学生がカウンセリングすることになるから安い。(重篤化した症状については専門の機関への取り次ぎとかをやってくれるはず)

今回は初回ってこともあり、ざっくりなにを喋りたいかみたいなところを確認したり、家族構成についての確認をしたりした。

自分がカウンセリングを利用する目的を書いとくと、
①愚痴を聞いてほしい
②コミュ障を治したい
の2点。

①は今後子育てだとか仕事だとかで悩むことがあったとき、相談できる相手がいないときついだろうなと思ったから。今は妻だけで、単純にひとりしか頼れる人がいないのは厳しいし、何より妻は俺の利害関係者なので相談しにくいことが出てくると思う。また、子育てを妻と自分で完結させると近視眼的になっちゃいそう。家庭内で認知できない問題にも対処できない。ので、予防としての意味で、カウンセリング。

②は自分がコミュ障だと思うから。コミュ障で死にはしないけど実際困ってるしみんなと仲良くおしゃべりしたいけどできないので、相談。

そんなかんじ。今回聞きそびれたこととしては、どんくらいのペースでカウンセリングをするのかについて。週一とかだと流石にきつい気もするが、しかし歯医者は週一とかでいくわけだしメンタルで週一がダメなのはメンタル軽視という気もする。

 

まあ今回は以上!オゥイェ