親です。

読んだ本とかについて書いてます

170526_育休とるよ日記

日記です。

妻が妊娠したので育休に向けた日記でも書くかな、誰かの役に立つだろ、と思ってたけど全然書いてこなかったのですが、とりあえず適当でも始めることが大切だろうと思い書きます。

とりあえず育児のこと中心的に書くつもりです。育休にまつわることで何してんのかっていうと、最近は会社で育休の申し開き書みたいなのを書いてます。あとは保活? って何すんの、みたいなブログを読んだり。

保活とは?いつから何をするの?保育園に入るためのポイントは? - こそだてハック

 

育休のお金について。

育休でもらえるお金(育児休暇給付金、だっけか)のことを、もちろん調べてる。情報はネットにのってて、

育児休業給付金の条件・支給日・計算方法!新米パパが経験をもとに解説するよ | ゆるがしこい節約メディア「ゆるぢえさん」

驚くのは額面の7割も貰えるのか、ってこと。さらに社会保険料(厚生年金とか)が免除になり、また所得もないから所得税もなくなる。住民税はあるんだけど、それでもこれだけ税金軽いのは正直びっくりした。

僕の場合だいたい額面が毎月35万くらいなんだが、そうなるとモロモロ計算したけっか23万くらいが手元に残ると分かった。これって、残業しなかった時の手取りより給料多いんだよな。育休とるか、もしくは時短で働くか、って悩んだんだが、金のこと考えるなら育休とるほうがいい。

ちなみに、日本の育休制度は世界的に見ても割と充実している。(リンク変な感じにしかなんねーわ)

リダイレクトの警告

アメリカ 先進国で唯一、有償の育休制度がない。
フランス 育休は3年間取れます。給付期間は第1子は最長6ヶ月、第2子以降は3歳になる前の月まで。給付月額は、552.11ユーロ。第3子以降で休業期間を1年間に短縮する場合は789.54ユーロに割増し。
ドイツ 子が満3歳まで。給付期間は12ヶ月。給付月額は、従前の手取り賃金の67%(上限1,800ユーロ、下限300ユーロ)
日本 満1歳まで。給付月額は、育休開始日〜180日目まで月給の67%。181日目から365日目まで月給の50%。(上限21万3450円)

現在1ユーロ120円くらいだから、ドイツの上限21万くらいか。まあ日本はこれドイツを参考に作ったんだな。上限あるのがけっこうキツイなと思う。ってか、俺23万給付金で貰う気になってたけどもしかしてカットされんのか??????

よく分かんねーと思ってたら、妻がハロワのサイト見せてくれた

ハローワークインターネットサービス - 雇用継続給付

「賃金日額」は、事業主の提出する「休業開始時賃金月額証明書(票)」によって、原則育児休業開始前6か月の賃金を180で除した額です。これに上記(1)の支給日数の30日を乗じることによって算定した「賃金月額」が424,500円を超える場合は、「賃金月額」は、424,500円となります。(これに伴い1支給対象期間(1か月)あたりの育児休業給付金の支給額(原則、休業開始時賃金日額×支給日数の67%(50%))の上限額は284,415円(212,250円))
また、この「賃金月額」が68,700円を下回る場合は68,700円となります。(この額は毎年8月1日に変更されます。)。

(太文字はワシ)

これによると、額面の平均が424,500円未満ならカットされることなく貰えるとのこと。

あーよかった。

 

育休とる男の会

あと、育休とる男の会みたいなのに参加したいなとも思う。なんでかっつーと、金のことはとりあえず大丈夫そうなんだが、毎日育児になっちゃったら健康に悪いから。妻も毎日育児だと不健康だろ、って思って俺が育休とってんのに、俺が毎日育児したら本末転倒だ。家庭以外の所属組織が欲しくて、今までは会社一本時々大学のスクーリングにいく、みたいな感じだったから、会社を休み出すと途端にどこにも行けなくなる。元々が内向的で人とのコミュニケーションを面倒臭がる人間なので、計画的に自分を人の間に差し込まないとあっという間に引きこもってしまう。それはよくない。

どっか所属できるかなーって考えてるのは、

  1. 母校に戻って心理学部のゼミとかに参加させてもらう
  2. ITのなんか参加する会に出るか、インターンに無給で参加する
  3. 小説のサークル的なのに出る(あんまりだな)
  4. 福祉的なあつまりに出てみる。
  5. 育休とってる男の会

 

あー、どうすりゃええんじゃろなあ。

 

 

その他面白かったもの

家族留学ってのが面白かった。

manma|家族留学で子育てのリアルを学ぶ

 

あー人とのコミュニケーションが億劫じゃなければ色んな会合など参加できんのになあ。

今回はここまで! ハムスターのお世話しよーっと。あと明日のFMの準備もしよ!

 

 

2017年の個人目標

どうもmaximonelson49です。本年度の目標を立てたので、まあ記録として残しておく。

 

対象項目

①心理学
②英語
③福祉キャリア
④ITキャリア
⑤ブログ/小説
⑥おちび
⑦読書

目標を立てる目的

①計画&達成は快楽。
②目的の自覚による目標の手段化。
③目的の自覚による意味付けとモチベーションアップ。
④日々やるべきことを一々悩まず済む。

⇨達成基準定めて、意味付けして、達成方法考えて、目標の運営方法決める。

嫌な時間の過ごし方

な〜〜にしてたのか分からん。漫然としてるやつ。目的意識の薄い時間。

目標の運営方法

期初に下記3項目で目標を立てる。
①達成基準
②達成方法
③目的
で、定期的に方向性の見直しをする。一番大切なのは目的。問いは見直せ。

 

心理学

【達成基準】
①単位取得のペースを立て直す…!
月一で単位取得。
【達成方法】
毎日朝に勉強。レポートを最短で書いていく。
【目標の意味】
・人の発達、人生設計に興味があるのと、責任の概念が臨床心理に関係ありそうなので勉強したいなと思ってる。
・あとは単に技術以外の道を持っておきたい。専門分野を。
・今回目標にあげてんのは、マジで単位とれへんから。頑張る。金がかかってる。
【見直しサイクル】
月一くらいで見ていくか…危機感やばいしな。

 

英語

【達成基準】
①1804までに、TOEICの初回受験の3割増しをとる。
GitHub使いこなせるようになる。
【達成方法】
毎日英単語。
四半期でTOEIC
いつか一億人の英文法。
【目標の意味】
・英語分かるだけでGitHubできるし心理学の論文も読めるやろ、絶対QoL上がるわ。
・海外行きたいしな。
【見直しサイクル】
四半期かなあ。四半期でTOEIC受験もしよ。

 

福祉キャリア

【達成基準】
①問いを見栄でなく立てられること。
②誰のために仕事したいのか答えられること。
【達成方法】
月一で?セミナーとかにいく。

リディラバなど活用する。
【目標の意味】
・問いの掘り起こし。
・なーんか何したいのか分かんねえから、行為して動機を見つけ出す。
・行動しなけりゃ分かんないし。
【見直しサイクル】
四半期かなー。

 

ITキャリア

【達成基準】
①技術者です、って胸張って言えるようにする。
COBOLとかいう古代言語以外に言語を身につける。HTML CSS JavaScriptとかな。どのレベルまでやりゃいいんだ?
ファイルメーカーの準備?
【達成方法】
・毎日勉強。
GitHubに投稿する!
【目標の意味】
・行為を担う方。スキル、世界へのアクセス方法としての技術を身につける。
【見直しサイクル】
・月一とか? いや毎週? 毎日? 本当に毎日勉強するなら、毎日見直ししてて、けど大きな目線からも見直したい

 

ブログ/小説

【達成基準】
今年度中に、4本くらい書けたらいいな…!気合い入れたのを。
【達成方法】
シーズンで1本書く権利を自分に与える。それって心理のレポート次第だよな。心理のレポートがスケジュール通りに行ったら、空き時間をブログにしてよいことにしよう。
【目標の意味】
・書きたい、それだけ
【見直しサイクル】
四半期。あー書きてえ。

 

ももちゃん/ようちゃん

【達成基準】
①育休とる
②コントロールタワーどんだけか担う。
【達成方法】
なにすんだろ?
【目標の意味】
・繰り返し効く体験じゃないから、計画しておきたい?
・発達理論のところを見ていきたいねえ。
・新しい働き方、人生設計として? あとは現実かなあ。
・あんまりはっきりしてない。
【見直しサイクル】
月一とかにしとくか。わおーん楽しむゾイ

 

読書

【達成基準】
月一で本読む。
【達成方法】
本読む。土日にかな?
【目標の意味】
・読書しとけって。
・息抜きかな。
【見直しサイクル】
月一ー。

 

 

目標のうまい立て方、考えたいものよ。あとは過去の志望動機記事でペラペラと意識高いこと言ってたので、まあなんだろ、それを身の丈にあったものにしたいすね。

優しさと責任範囲について

どうもMaximoNelson49です。
優しさと責任範囲について、書くよ。
 
先日、妻の友人と同席する機会があった。妻の友人と顔をあわせるのは初めてで、去年妻と僕は結婚していたこともあり、めでたい、みたいな感じになった。
で、こういう祝いの雰囲気では、当たり障りのない会話として夫(僕)は誉められる。コミュニケーション能力が高ければそういうお約束の会話でなくて人と人とで行うコミュニケーションができるのだが、悲しいかな僕はコミュニケーション能力が低くって、まあ人に誉められた。で、さらに面倒くさい人間で申し訳ないのだが、誉められた内容で「皿洗いをするから優しい」というものがあって、なんだそれ?と思ってしまった。
僕にとって皿洗いは単に我が家のルールであり、優しさでやっている認識がなかった。つまり僕の責任範囲にあったからやっただけで、(優しさから)とらなくっていい責任をとったつもりはない。
 
今回ブログを書こうと思ったのは、この「はぁ?」みたいな感覚が元ネタだ。優しさと責任の話って、けっこう関わりがあるんだな、明文化して押さえておくと面白そうだな、と思って、考えをまとめた。

(だって例えば普段は家事を一切しない妻/夫がゴミ出しして「オラ優しいだろが感謝しろや」とか言ってきたら嫌でしょう?)

 

概要・もくじ

先に、当ブログポストの概要だけ書いておく。このブログポストの大きな目的は、優しさと責任範囲の見分けをつけることだ。ここまでは自分の責任範囲だからやってて、ここからは本当はやんなくてもいいんだけど優しさでやってます、と言えるようになること。
論全体の流れとしては、『責任の話』『責任範囲の話』『優しさの話』と展開させようと思っている。最初の『責任の話』は少し抽象的になりそうだが、まあごめんなさいというかんじ。

 

責任について

優しさと責任範囲の見分けをつけるにあたって、まず責任とは? というところから考えたい。この記事の前提として、責任範囲(=やらなきゃいけないこと)を超えた物事を優しさ(=やんなくていいこと)と捉えている。となれば、責任範囲がどこまで及ぶかさえ分かれば、優しさと責任範囲の見分けは簡単につきますよね、って話だ。
ではまず、責任とは? の話から。とりあえず一般的な定義をもってきて共有地点を作りたいんだが、てきとうなネット辞書(デジタル大辞林)で調べると、責任とは下記のようになる。

 

せき‐にん【責任】
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」

2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」

3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
(引用元:https://kotobank.jp/word/責任-547351)

まあ何らかのしなきゃいけないこと、みたいな意味らしい。

じゃあなんで、しなきゃいけないこと、責務、義務が発生するのか? これは(僕の大好きな)幸福追求権で説明がつくと思う。それを説明する前に、ちょっと前提となるお話を挟む。

 

幸福の追求と原始的な責任

幸福追求権とは何か。まあ読んで字のごとく、人は幸福を追求する権利があるよ、って話だ。これはたとえば雨風が強ければ家を建てたり、格好いい服が着たければ買ったり、という権利は自分にありますよ、ということ。

んでこれは、変な言い方をすれば、基本的には自分を幸福にする責任は自分にあるということだ。

得たければ行為して、不要なら行為せず、回避したいなら行為して、回避しなくてよいなら行為しない。私たちはみな、ある結果が、それを得るための行為に見合うかどうか考えた上で、そこに合理性とか経済性とかを主観的に見出せていれば、その行為と結果を引き受ける。んでまあこれって権利云々の話じゃなくて、実際そうしてるよね、って話だ。(こういう「可能である」こととか事実とかから派生してるから、幸福追求権は僕の中でちょっと特別な権利になっている。)

まあこのように、幸福追求権とか自分の人生に対する責任とかがある。

で、そろそろなんの話だか分かんなくなってきたと思うが、この幸福追求権とか自分の人生に対する責任とかが競合する範囲で、一般的な意味での責任が発生してくるのだ。

 

幸福追求権の競合と社会的責任

どういうことか(いやまあ簡単な話なんだが)。

まず、前提として「私たちは私たち自身の人生について、幸福にする権利がある」。

で、そういう個人が寄り集まって社会を形成したとき、自分を幸福にしようとした結果、他人の人生に影響を与えてしまう、というのがかなりある。

このとき、私の立場からすれば自分に影響を与える物事は自分で決定できるはずだが、他者の立場からすれば他者自身の物事について決定できていない。

で、どうすんのかというと、なんらかの合意を形成すればよい(じゃんけんするとかして)。

このときに生まれた取り決めを守ることが、義務的な意味を含む、社会的な責任だ。

こういう取り決めはこの世にあふれていて、例えばそれが法律だったり、家庭内でのルールだったり、または職業規範だったりする(言うまでもなく、幸福追求権に基づいて合意を形成すべき、という考えもまた合意である)。

 

まあざっと考えてみたところ以上のように整理できた。クッソ簡単に言えば「ルールは守りましょう」ってだけなんだが、大事なのは「自分の人生を自分で決める」ってのを権利のレベルで保証するために責任は発生したというところだ。

 

責任範囲について

 さて、以上で責任という概念がどう生まれたのか? みたいな仮定をばばーっと書いてみたが、ここで一度整理したい。

責任は下記3レベルに分けられる。

  1. 事実として、私は私のために生きている、ということ。(前提なしの責任)
  2. 権利として、①を社会的に認めること。
  3. 義務として、②の結果発生した様々な約束事。

それぞれ具体的なエピソードを交えつつ説明を加える。

①前提なしの責任

自己の人生に対する責任。私は私のためにしか動かないし、他人は他人のためにしか動かない。ゆえに、自分に影響の出る範囲については口を出せるし、自分に影響の出ない範囲については口を出す義理もない。

夕食を一緒にとっていると、同居人が「明日早いんだよね」と言った。

自分は明日はオフの日だったので、趣味を夜遅くまでやっていた。そのせいで翌日はいつもより遅く、11時ごろ起き出した。すると、同居人もちょうど起きたようだった。同居人は激しく焦っていた。

 同居人が遅刻しようと私に責任はない。私の行為によって同居人は遅刻したわけではない。また、同居人のために早寝早起きをする義理もない。

②幸福追求権

①を社会的に認めたとき発生する。私は私のために生きるが、その行為が他人の人生に影響を与えるとき、合意を形成する必要がある。ゆえに、私は他者に影響を与えるとき、合意を得た上でそれを行わなければならない(口を出させなければならない)し、他人の行為が自分に影響を与えるとき、合意の形成(口を出すこと)を求めることができる。

夕食を一緒にとっていると、同居人が「明日早いんだよね」と言った。
自分は明日はオフの日だったので、趣味のデスボイスを夜遅くまでやりたかった。しかしそうなると同居人の睡眠に影響するため、夜10時までと約束した。

 自分の楽しみを追求した結果、同居人の睡眠に影響が出てしまうため、口出しを認めなければならない。

③合意されたもの

②の結果生まれた合意。3つのレベルがある。

⑴法律、家庭内のルール

②の範囲内で結ばれた合意。権利が競合したときに結ばれた合意で、それが一般的にいえたため社会的なルールとなったケース。決まりごとは守らなきゃいけないし、合意している限り守らせることができる。

私たちの市では、公園で花火を行うことは禁止されている。

⑵法律その2

①の範囲で作られた約束事。他人にはなんら迷惑をかけないんだが、社会のルールとしてやめましょうとなってるもの。マリファナとかは健康被害もそんなないし、酒みたいにアッパーになって他人に迷惑かけるわけじゃないんだが、禁止されている。

海外では医療用大麻が認められているが、日本では認められていない。

⑶優しさ。

①の範囲外でされた取り決め。自分には影響しない範囲なんだが、あえてその責任を引き受けるもの。

 同居人に明日の朝起こしてもらえないかと頼まれた。私は翌日オフの日だったが、早起きして同居人を起こしてあげた。

またこれらの本当にらちがいに、合意のない行為、みたいなのもある。

 

優しさについて

さて、以上のように私たちの責任は「自己合意した①の範囲 + 社会的合意の範囲」ということになる。

また、さらっと優しさを登場させてしまったが、つまり優しさは自分に責任のない範囲で、あらたに合意を形成して他人の責任を負うことである。このような責任範囲の図を元にすると、優しさについての注意点も分かってくると思う。

①前提としての合意

優しさってのは基本的に越境行為であり、合意を形成せずして成り立たない。合意を行わずに相手の責任範囲の物事を行うことは、これは結果がいかに相手のためになろうと、「あなたの人生は他人によって口出し可能なものである」と言っているようなもんだ。これは簡単に絶望に繋がるので気をつけた方がよい。

②報酬について

何らかの報酬(感謝など)を求めるなら事前にそれを告げておくべきだ。そうでないと、飯おごってあげる、って言っときながら会計の時に翻してワリカンでって言ってんのと同じになる。

③優しさを優しさとして求めること

 優しさは基本的に責任の範囲外であり、負わなくてもよい責任を負ったものだ。だから、すでに合意していないかぎり責任を負う義務はない。優しさってのは社会善なので、優しくないとバッシングされる向きもあるが、非難されるいわれは全くない。むしろ優しくしないと非難されるから(私が不利益を被るから)と正当化して合意してもいない優しさを押し付けてくる方が厄介である。

 

 最後に

 さてこれでこのブログポストは終わりだ。この責任の話はまあ自分の生活から出てきたもので、何の論理的な後ろ盾もないんだが、実際こういう考え方できるようになって以来、お仕事がやりやすくなったので多少は役に立つかなと思っている。あと関連の書籍あったら教えてプリーズ。

まあ、なによりずっと書こう書こうと思っていたことをまとめられて僕は満足です。

最後にいつも通り、その他の雑感や今後の課題的なところを列挙して終わりたい。

 

・前提なしの責任、って考え、よく分からんと色んな人に言われそう。要するにこれはニヒリズムです(たぶん)。責任について説明してるところに、そういう別の説明しなきゃいけないのを突っ込んでるから分かりにくいんだが、けど説明すると長くなりそうなのでやめました。

・この論は基本的に、自分について自分で責任を持てる健全な人間、というのを前提としている。このとき、自分の責任範囲を果たせない人はどうなっちゃうのか。例えば、子供、老人、障害者、他には会社の新人とか。幸福追求権を社会的に認めるとき、それが社会を殺すことにならないか。

・おそらく素朴な責任意識を持つ(前提なしの責任)ところでは、自他を同化させて自分の範囲を広げ、それによって社会を成り立たせていたんだろうなあとも思う。

・そうなると、あらゆる権利は嘘なのと同じように、自我とか意志とかの存在自体が近代的な制度である、ってのはありそう。私たちは意志を持ってはいない。

・バンジャマン・コンスタンの「近代人の自由と比較された古代人の自由について」では古来の自由観は集団に対して意思決定をできることだと言っている。これも、ある種意志の否定かなにかかも。

・また、ずっと他人の責任範囲の責任を取らされている人は、自他の境界が曖昧になるだろうなとも。母親とか、兄とか。

・あと社会的抑圧で自分の生活を誰かの欲求に拠出しなけりゃならない人たちも、基本的に責任の概念が曖昧になっちゃうだろうなと。うーむ。

 

最近は仕事が楽しいです。IT系の方面でもちゃんと活動できるようになりたい。

以上!

 

(170606追記)

・殺人は取り返しのつかない罪だ、という言葉を聞くが、あれは正しくなくて、全ての罪は取り返しがつかない。ただ、一般的な罪はその行為後に裁判とかを通じて事後的に両者で合意を得ているというだけ。しかし殺人(や労災で労働者を意思決定できない状態においやること)は、合意を結ぶ主体がいなくなってしまってるわけであり、事後的な合意もとれない。ゆえに取り返しがつかないように見える。 

クソな夫婦喧嘩を「論点」の概念から考える。

どうもmaximonelson49です。今回は夫婦喧嘩と論点について気づいたことを書くよ。(この話、面白いと思ってるのでいくつかの連続した記事にします。)

 

よくある喧嘩のモヤモヤ

こういう話を聞くたび、すげーモヤモヤする。

夫がリビングに私物を置いて片付けない。「片付けて」と言うと、「仕事で疲れてる」と言い返される。なので仕方なく、自分が片付けることになる。

 「言い方が気にくわない」とか「今忙しいから」などのパターンもあるが、これ系。

何がモヤモヤすんのかって、なんというか、こういう言い返しで議論を終わらせようとすること自体もモヤモヤするが、それに加えて、この言い返しで矛を収めてしまうこととか、その言い返しがまかり通る、この雰囲気自体にモヤモヤする。なぜそれで議論が終わる…となる。

そこで、なんで議論が終わるのかと考えてみるたんだが、たぶんこれ妻側は「それも分かるなあ」となっちゃってるんだと思う。

共同のスペースを汚くされると困るから片付けて欲しい。が、夫が疲れてるのも分かる。そうなると夫の言う『疲れた』に対して言い返せなくなり、議論が終わる。たぶんそういう状態にある。

僕はこういうのに対して「あーなるほどねー」と思う。ただその一方で「いやそれは違くないか?」とも思う。というのは、「部屋を片付けろ」に対して「疲れてる」と返すのって、端的に言って反論になってないからだ。

ちょっと考えてほしいんだが、まずここでは「疲れてる」という主張が理解できるから「部屋を片付けろ」が取り下げられている。ただこれって例えて言えば、「1,2,3の中で1が1番小さいよ」という主張に対して「いや3が1番でかいでしょ」と言われて(たしかに)って思うから「1が1番小さい」っていうのやめよ…みたいな話だ。例え疲れてるって分かっても、「片付けるべきなのではないか?」という論の正当性はなんら傷つけられていない。それは、3が1番大きいからといって、1の小ささに疑問がつかないことと一緒だ。

 なので、夫の『疲れた』に対して妻は『片付けて』を取り下げる必要はない。だがここで注意してほしいのは、上記の論が通るとき、『片付けて』も『疲れた』の反論にはなり得ないということだ。

 つまり僕がいいたいのは、どちらかが意見を飲み込むことは変なことですよ、ということだ。だから大切なのは、「疲れてる」と「片付けて」のどちらも自分自身の問題を飲み込むことなく、両者円満にいられるような落としどころってどこだろうね? とふたりで考えることだと思う。そしてそれは、ちょっと考えれば案外簡単に解決できる問題だ。

(まあこの例だと、夫は自分の義務を放棄しただけなので妻は一方的に求めてもよいのだが。)

 

さて以上のような話って、まあ度々確認されてきた話ではあると思う。それをなぜわざわざブログにしてるのかというと、これが僕の小説やらとリンクする問題であり、これを自分の言葉でまとめておく必要性を感じたからだ。(こっからいつもみたいに、わっけわかんねー言葉で話します。)

 

論点について

前置きが長くなったが、ここからいつもみたいに書く。

まず冒頭のエピソードを語るにあたって、僕は「論点」という概念を持ち出したい。一般的な意味としては論ぜられる点(そのまんま)を指すと思うが、ここでは「解決されるべき問題点」ってくらいの意味だ。

んで、なぜ論点なんて概念を持ち出したのかというと、議論というのは基本的に下記のフェーズを経ると僕が思ってるからだ。

  1. 「論点の設定」をするフェーズ
  2. 「論ずる」フェーズ

まあ会社の会議とか思い浮かべて貰えばいいと思う。この会議では何を解決するか? を議論の参加者間で共有し、それから実際に語り始める、って流れがあると思う。

このフェーズの意識がなく、論点の設定がされていないと、議論はうまくいかない。何故なら何かの問題に答えを出そう、としているとき、解く問題の違うやつがいると、もはや答えのだしようがなくなってしまうから。または、話してる途中で気になった方向に議論が進んでいってしまい、結局何がどう決まったのか分かんなくなってしまう。飲み会の会話みたいな感じだ。

以上は『論点の設定をしてないと議論が成り立たないだろ』という成立条件の話だが、その論点が価値あるものか? について考えることは議論の質自体にも関わる。

以上の2点(成立条件と質)から私たちは、議論の際には論点を設定するフェーズを用意する必要がある。

 

で、

ここで、先のエピソードに戻ってみる。このエピソードでは妻が『片付けて』という論点を提示し、その返しとして夫側から『疲れた』という論点が提示される。その後何故か『疲れた』だけが論点として残り、そしてまた何故か、議論が終わっている。

これ、上のフェーズに当てはめると、どうなるか。

どうなるかというと、論点の設定もできてないところにいる。これ本来なら、お互いがお互いの論点を提示しあったところで、ここから『では今話し合うべきところはどこか?』と論点のすり合わせに入り、論点が定まったところで議論が始まるはずだ。しかし、そうはいってない。

仕事上の会議に例えてみると、さらに分かりやすいだろう。

取引先と集まって挨拶とかして「いやはやコレコレにつきましては…」と営業さんが言ったと思いきや取引先が「今日はアレコレの話をしましょう」と言い、何故か皆黙り込み、そして解散となる、みたいなもんだ。頭がおかしくて会社が潰れる。

だから僕は激しくモヤモヤした(だって議論始まってもないのに終戦してる)。そこに問題があるのなら決着つくまで議論してほしいと思う。

(というかまあ、これがまかり通るのって興味深くすらあるので、そこらへんもまとめて記事にする。)

 

最後に

以上のように、議論にはふたつのフェーズ『論点設定』『議論自体』があり、議論の設定をちゃんと行うことで議論は成り立ち、質も高いものになる。

たぶんこれって、わりとみんな会社の先輩などから教えられていると思う。ただここで重要なのは、これは仕事で先輩からそう教えられたから仕事上そうする、という質のものではなく、議論の構造上それが必要とされるってことである。

論点の設定について、仕事ではできるが夫婦関係ではできないって人いると思うが、これは議論の構造から必要なものであり、お仕事の決まり事だから、ってわけじゃないところを理解してもらえるといいかなと思う。

 

さてこの投稿は、これで終わりである。本当はもうちょい広めの話として記事にしようかと思ったんだが、なんだか実質5本分くらいの文量になりそうだったので、一記事にすんの無理あるなとなり、ここでやめた。

連続する記事としては、こんな感じ。

  1. 人の権利としての論点設定(まだ)
  2. 『疲れた』型の反論、誤謬(まだ)
  3. 正しい反論の仕方(まだ)
  4. 夫婦喧嘩に反論は必要か?(まだ)

作ったら、リンクで飛べるようにする。

では最後に、上で書いたような考え方を扱ってる書籍のリンクを貼ったり、書きそびれたことを書いて終わる。

 ●いい本ら
ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101

ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101

  • 作者: ニール・D・ヒックス,Neill D. Hicks,浜口幸一
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2001/03/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 18人 クリック: 150回
  • この商品を含むブログ (54件) を見る
 

 映画の脚本について書かれた書籍だが、僕の考えることはだいたい全てこの書籍と小説書いてた経験による。ので一応示す。良い本です。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 

 名著。

 あんまりいい本じゃないけど読みやすくはある。ちょうど会社で『この本の解説で発表して』みたいな仕事をもらった、という偶然に乾杯しつつあげとく。

●書きそびれ

・まあ『疲れた』は単純に議論もしたくないということだろうから、残念だがこの投稿で当初のエピソードを解決したりするのはちょっと無理がある。

 

以上。

私の志望動機(7000字以内)

どうもmaximonelson49です。以前自分が何したいのか? について書いたことがありますが、それの長い版です。7000字あるよ。

 

志望動機ーー働き始めるまで

昔の話をするんだが、高校生ぐらいから就活の時期まで、僕は編集者になりたかった。というのは高校2年から小説を書いていたのと、そのころバクマンが流行っていたから。なんかもう、ラノベの編集者とかになれば楽しいんじゃね? と思っていた。大学受験で首都大学東京を選んだのも、 都内の文学部がある国公立大が東大か首都大だったからだ。

んで、編集者になりたいと思った事の発端は、まあそういう安直な理由(はやりの漫画に影響されて)だったのだが、その「編集者」というのを、現実的な、自分の将来の姿として思い描くようになったのには、別の理由がある。

それは大学3年の話になる。僕は大学3年のときから首都大の文藝サークルに参加し始めた。1年生の頃にも通おうとしたことがあったのだが、なんだか上京1ヶ月で人付き合いとか東京とかに疲れて家に引きこもり小説を書き始めたので、辞めていた。それが3年になって文藝サークルに入ったのは、2年間ひたすら引きこもって小説を書いていたところ地元の同窓会でマジで人とのコミュニケーションが取れなくなっており「俺は小説ばかり書いて何を得たのだ」と絶望的な気分に陥って、いつも僕の小説を読んでくれていた友達の坊さんに「もう小説書くの辞める…」と言ったら「けどお前から小説とったら何もないじゃん」と言われ(何もない…!)と驚愕しつつけどコミュニケーション取れるようになりたい、けど小説以外何もない…!、の結果、小説でコミュニケーションを取れるサークルに入ろうと思った、というものである。

で、僕が編集者をリアリティのある自分の将来像として描き始めたのは、とにもかくにもこの文藝サークルに参加したことが理由だった。もう少しいうと、このサークルで出会った、後輩の男の子が理由だった。僕は基本的に自分の小説が1番価値のあるものだと思っており、他人の書いた小説を読んでも、あんまり面白いとは思わない。だが、その子の書いた文章は別で、他人の書いた、文章そのものに対しての嫉妬を感じる、それは初めてに近いことだった。本当に何処からその言葉が出てくるんだ、と思うような文章を書いて、けど、狙った感もなくて、魂が違うと思わされた。覚えているのは、「コロンビアでも蛸をとるのに蛸壺を使うのかな」というセリフで、何度も何度も、思い出しては見事な文章だと思っている。

そういう凄い文章を書く彼は、立ち居振る舞いや外見も作家じみていた。細身の天然パーマで、表情でイエスノーを示すような子で、けど酒が入ると少しだけ喋ってくれた。僕はコミュニケーションが下手くそなので飲み会ではテンションにまかせてウザ絡みをすることしかできないのだが、ウザ絡みをすると彼はなんか困ったような顔で笑って、けどまあ嫌な顔はしていない(と僕は万人を解釈する)ので、よくウザ絡みをした。一緒に阿修羅像の真似をした。そういうことをしていたら、比較的仲が良いくらいにはなれて、どういう経緯だったか、「先輩は優しいです」と、お酒の席で彼が言ったのを覚えている。あと覚えているのは、僕がいつものように部室で小説を書いたり消したりノートパソコンの方向キーを押したりしていたら、彼が息も絶え絶えに部室に駆け込んできて、どうしたと聞いたら、ひとりでいるのが怖くて、と言っていた。僕もその気持ちはよく分かったので、一緒にマックにハンバーガーを食べに行った。夜の10時くらいだったか。彼は月見バーガーを買い、食べはせず、自転車の前かごにそれをいれて帰って行った。

その頃の僕は、完全にこの子は作家になる子だと思っていて、というかむしろ自分がこの子を作家にしたいと思っていた。この文章を掲げて、叫びながら町中を駆け回って、どんだけこの文章がすごいのか、みんなに突きつけてやりたかった。まあそれが僕の野望みたいなものだったのだ。この凄まじい文章を世界に送り出すこと。んで、彼が作家になっても、一緒にお酒を飲んであげたりして、彼が何かに思い悩んでいても、背中を叩いてあげたりして、大丈夫だよ、と元気づけてあげよう、そうやって彼を支えていきたいな、そう思っていた。

 ただ、就職活動が始まって少したった2月の末に彼は亡くなった。死因は分からないけれど下宿先で亡くなっていた。最近見ないなと思っていたら、そんな感じになってしまった。僕はその一報を、別の後輩に乗せてもらって一緒に向かう鶴岡八幡宮行きの車の中で聞き、くそが、と叫んだ。サークルのみんなでお別れ会のようなものを開いた。ちょうどその頃大手出版の就職活動も終わりに差し掛かったところで、続々落選の知らせを聞いていた僕は、そのまま就職活動を休止した。2ヶ月くらい小説を書いたりして過ごし、6月末くらいに就職活動を再開した。一緒に出版社を目指していた子はまだ出版中心で就職活動を続けていたけれど、僕は出版は辞め、金融とかITとかの業界を中心にした。まあたぶん出版は通らないだろうという諦めと、なんというか、もう少し堅い職業に就きたいという思いがあった。出版の面接では人を支えたいなんて言っていたけれど、支えたいと思っていたあの子は死んでしまったし、支えるって一体、なんなのか分からなくなってしまった。少なくとも一緒に酒を飲んで無責任に大丈夫だよと言う、そんなのは支えるということではなくて、支えるというのはそんなに簡単なことでもない。そう思っていたら、なんだかもうちょっと堅実な、お金に関わるものだったり、技術職につければいいな、そう思って、職業活動を再開した。大学の就活の窓口みたいなところに通い、優しいおばちゃんに励まされながら就活し、7月末に採用がでた。都内ITだった。そこにした。就活相談の初回につらいつらい言って泣いた僕にめちゃくちゃ優しく接してくれたおばちゃんには、すごく感謝している。

 

志望動機ーー社会人1年目

 採用が出てからの僕は、計画的にも卒論を半分くらい夏休みの間に書き上げたり、秋の文学フリマに出たりしてそこそこ充実した大学生をしていた。就職活動を再開したころから奥さんとは付き合い始めていて、ここら辺の時期はよく喧嘩をした。相変わらず僕はコミュニケーション不全だったので、大変ご迷惑をおかけしました。追いコンでも喧嘩して、その頃の自分の主要な態度だった「被害者のスタンス」が何故起きるのか、というものについて1ヶ月くらいかけて考えさせてもらった。これを契機に、ものを考えるというのは面白いんだな、と思えるようになっていった。

就職後は、まず、泊まり込みの研修で2時間くらい泣いた。部屋に引きこもって泣いた。知らないひとと一緒に生活するのがすごく嫌だった。まわりが楽しく生活する中、自分はきちがいなのだとよく思っていた。就活でもエントリーシートは一本も通ったことがなかったし、だいたい採用も最後の枠で、もう取る必要はないけど変な奴がいたら取る、とのことだった。自分はきちがい枠採用だと、度々思った。先が、すげえ思いやられた。

 ただ、職場に配属になってからは案外楽しい日々が待っていた。後から聞くに、僕の配属になった現場はうちの会社の中でもかなり現場の雰囲気の良いところらしかった。みんな若いし、大きな炎上もないし、精神的に余裕があって風通しの良い現場だった。僕としては研修があれだけクソだったのに対して現場がこの優良ぽさだから、もう最高! まじでがんばろ! みたいな具合に、プログラミングやらの仕事に真面目に取り組んでいった。まあそのおかげか本部の発表会で最優秀賞もとれたし、その場で結婚報告をして一気にネタキャラと化した。

まあ、このように僕は、本来自分は入れない企業に運良く入れたのだから、頑張らねばという気持ちで取り組んでいた。周囲に対して引け目を感じていて、だからまともになれるよう与えられた仕事に自分をアジャストさせようとしていった。

 ただ本来論的にいって、別の記事(絶望と責任について - 小説とか脚本術とか自分以外についての思考整理)でも書いたが、僕は基本的に技術職のやってることには、面白みを感じない。プログラミングというのは基本的に単純作業だし、その割には複雑なソースコードも多い。去年の暮れには1日16時間働く時期もあり、僕は気が狂ったのかカット野菜を道にばらまきながら涙を流して帰宅するということをしていた。

僕は結婚した時に実家とほぼ絶縁状態にあった。加えて上記のように仕事も忙しかった。同時期には妻も仕事が忙しくて、かつ新婚だもんだから、家の中の殺伐度がかなりあがっていた。当時僕は、これはもう倒れてもいいかな、いっそ入院でもした方が楽かな、と思っていたが、それが現実になるより先に妻が入院して生死の狭間を彷徨った。もちろん後輩の男の子のことは頭に思い浮かんだ。

このとき僕が強く感じたのは、幸福ってのは分かんねえな、ということだ。だって、いちおう僕と妻は新婚ほやほやで、世間的にはいちばん楽しい時期と呼ばれるときだ。仕事にしたって、上司はこれくらいやらなきゃ社会人としてだめだと言っていたし、沢山仕事をさせて貰えるのは、スキルアップもできてありがたいっちゃありがたいのだ。妻にしたって、内容はいちいち書かないがお仕事が外部に露出したりして、仕事的には充実していたと見ることもできる。ただ、それらは僕や妻にとって幸福ではなかった。

だから、幸福は、分からない。ここで面白いのは、大概の人が「幸福になりたい」とは思っているということだ。何が言いたいのかというと、みんな、「幸せになりたい、けれど幸せが何なのか分からない」。なら、幸せについて語るときは、まずその幸せが何なのかについて考えた方がいい。そしてそのとき大切なのは、幸福観なんてのは、人それぞれ違うってことだ。だって人間ってのはみんな別の肉体と精神を持つ異なった存在だから。幸せについて語るなら、私にとっての幸せを定義する必要がある。

僕はこの考えはそう間違っちゃいないと思っている。それは上記のような個人的な体験から言えるが、実は確信を持った理由は、他にある。それは僕が小説を書いていたことからくるものだ。小説を書いていたということは、わりと僕の根幹なので、ここに示しておきたい。若干わけわからんことを言うかもしれん。

まずは、上司に同じような内容をメールしたので、それをコピペする。

3年間くらい、毎日2、3時間小説を書いていたんですが、その中でこれは真理だなーと思ったことがひとつあります。それは、『問いかけの面白い小説は面白い』ということです。
たとえば推理小説ではだいたい最初に事件(殺人とか)がおきて、探偵役の推理が始まります。そのとき、事件がすごく謎深かったり、解決する価値のあるものだったりする小説は面白いことが多いです。
もう少し普遍的な言葉にすると、動機が明確で価値あるものだと、ストーリーがしっかりします。
(一般的には『小説の面白さ=オチ』だと言われますが、そのとき『前フリ、問いかけ』の大切さが見落とされがちです。)

このとき、小説は人生の縮図なので、『問いかけの面白い小説は面白い』が成り立つならば『問いかけの面白い人生は面白い』となります。
つまり、人生の中での色んな行為について、動機がしっかりしているほど、人生は豊かになりそうだな、と考えました。
じゃあその動機はどこから来るのか?というと、(社会的意義とかもありますが)、動機=個人の気持ちだろうということで

ここでは「問いかけの面白い人生は面白い(幸福だ)」と言っているが、この命題についてもう少し説明を加える。

まず、問いかけの面白さについて。上記メールにも書いてあるが、問いかけの面白さとはつまり『動機が明白で価値あること』である。僕はこの動機をふたつに分けた。それは

  1. 主人公にとっての動機
  2. 読者にとっての動機

である。

小説において、このふたつの動機に説得力を持たせる(切実なものとする)ことはかなり重要だ。このふたつを同時に満たすことで、小説は感情移入を成立させ、主人公にとってのストーリーを読者にとってのストーリーにさせる。(ここら辺は、過去の記事にも書いた。わけわからんと思うが、示しておく。(16_導入および第一ターニングポイントについて - 小説とか脚本術とか自分以外についての思考整理

小説を書く上で、この、主人公と読者双方にとって納得のいく動機を考える、というのはかなり厄介だ。主人公にとって納得のいく動機とは、どこまでも個人的な動機になりうる。というか、個人的な体験に基づくものであるほど、主人公にとって価値あるものでさえある。しかし、読者にとって納得のいく動機とは、それすなわち一般性のある動機である。主人公にとっての問い(独自性)と読者にとっての問い(一般性)を同時に満たす動機を考えるというのは、まあ骨の折れる作業ではあるんだろう(といいつつ回避策もあるのだが。さっきの過去記事にも書いてあるはず)

で、だ。しかしここで考えて欲しいのは、これが小説ではなく人生になったときどうなるのか? という話だ。僕は動機をふたつに分けたが、これは人生においてどうなるのか。

答えは簡単で、人生においては、主人公も読者も、それは私自身に他ならない。私は私のストーリーを生きるしかないし、生きることができる。なので、私は自分にとっての問いに取り組む必要がある。私は、私にとって納得できる動機をもって人生を生きればよい。

 

志望動機ーー社会人2年目 

 以上がだいたい、社会人1年目で僕が理解したことだ。働き始め、周囲の期待に応えようとしたけど無理がきたのが1年目。病むのもやむなしだと思ってる。

 ただ、そのお陰で(というのも変な感じだが)、僕はあることを良く考えさせられるようになった。それは「俺はなんでこの仕事をしてるんだっけ?」ということだ。僕の人生における問いってなんなのか、そしてその達成のために動けているか? (つまりは動機と行為が連なりストーリーをなしているか?)ということを自問するようになった。例えばこの記事では、自分のやりたいことってなんなのか、書いている。(最近思うこと・今後やっていきたいこと - 小説とか脚本術とか自分以外についての思考整理))。改めてここでも、自分が何をしたいのか、僕にとっての問いってなんなのか、について書き留めておきたい(まあほぼ上の記事と同じこと書きます)。

 僕は当初この業界に入るに当たって、堅い職に就きたいと思って入ってきた。元々僕は小説書きとかを支えたいと思っていたが、そのときの支え方(一緒に酒でも飲んで大丈夫だよといってあげる)ではなんだかふわっとしすぎていて、もうちょっと堅実に、お金とか技術とかに関わって、誰かを支える手になりたいと思ってきた。僕が現時点で考えることは、その直線上にある。

僕は、基本的に人が幸福を追求できないという状態が、おかしなものだと思っている。だがまあ、世の中を見渡せば幸せそうな人もいれば不幸せそうな人もいる。僕は、欲を言えば、みんなが自分自身に納得できている状態になってほしい。そうでないのは、おかしいことだとさえ感じる。だから、それを実現させたい。

じゃあそのために何ができるのか、って話だ。僕の中では、大きく分けて2つのアプローチがあると思っている。

①外的な支援(技術的な支援。現実に、個人がその幸福を追求できるような社会システム作り)

②内的な支援(内面の支援。個人が、自分自身にとって何が幸福であるのかを見定められるような支援)

たぶん、従来は①がメインだった。けど僕は、(小説の視点から言って、何を解決するのか、という問いかけを超える解決は存在しないから、)②も大切だと思っている。そして今まで②を担ってきたのはカウンセラーだとかだと思うが、彼らは現実的な支援までは手が届かず、支援に限界がある。僕はこれらをトータルでやる必要があると思っている。

で、とくに面白そうだなと思っているのは、医療福祉、教育、それと差別について扱えるジャンルだ。なぜそう思うのかというと、

  1. 上記②で示した内面の支援に関して、自分の幸せを把握できない、欲求の認知が下手な大きな原因には社会的な刷り込みがあると思っている。それすなわち、男はこれこれしなきゃダメだとか、女はこれこれするものだろ、とかだ。で、それって差別だよね、という話。
  2. 1で書いた社会的な刷り込みについて、刷り込みの根拠となる部分は技術的なアプローチで解決できることが多い。とくに医療福祉のジャンルでは、病人=かわいそうな人、となりがちだが、医療がクソほど発達すればそのかわいそうさの根拠はなくなる。啓蒙活動より手っ取り早い。
  3. 差別で抑圧されて欲求を認知できないってことは、認知できたらそこには大きなニーズがうまれることになる。これって鉱脈じゃね? と。シェールガス的だなと。

またこのとき、手段はまあ腐るほどあるのだと思っている。どんな仕事をしてもよい。なんなら会社に勤めている必要もない。僕は上に書いたようなことを成すために仕事をしている。会社の一員として僕がいるのではなく、僕の人生の一部に会社があるのだ。

僕のやりたいこと、というのはまあざっとこんな感じだ。内面の支援については大学の心理学部に編入したり、メンタルヘルス系の資格を取得したりしている。今後も勉強を続けていきたい。一方で具体的にどんな仕事があるのか、というところはまだ見つけられていない。今後、そういう仕事をしている人に会うなどして、どんな方法があるのか、また僕の幸せは本当にこの方向なのか、検討を進めたい。

あとは、ブログに考えまとめたり、小説関連のこと考えるの、続けていきたい。これがなんだかんだ、1番楽しいし。

以上です。

【映画感想】『ROOM』と未評価な地点について

こんにちは。maximonelson49です。しばらく前だけど、『ROOM』という映画をみたので、感想を書くよ。

 

 

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この映画の概要をざっと説明すると、メインの登場人物は女性・ジョイとその子供・ジャック。ジョイはある男に7年間納屋に監禁されており、その監禁生活の中で妊娠・出産までしている。なのでジャックは、納屋(部屋)以外の世界を知らない。この映画は、ジャックの視点を中心に語られる。

この映画は物語の前半1/3で、監禁生活からの脱出を描いて、後半2/3で脱出後を描いている。映画の宣伝文句『はじめまして、世界。』にあるように、(脱出のパートも面白いんだが)脱出後のお話が面白い。

どこが面白かったかっていうと、ジャックの視点を通じて描かれる初めてだらけの世界と、ジャックの初々しい反応、そしてその反応の裏にある、世界が『未評価であるという地点』が面白かった。

とりわけ僕は『未評価である地点』について、何かこう雷に打たれたような思いがあった。たとえば、ジョイ(ジャックの母親)をどう描くか、という問題が、ここに関わる。

この映画のジョイに対する描き方とは、すなわちジャックがジョイをどう捉えているか、 ということでもある。そしてこの映画では、ジョイはことさら悲しい存在としては描かれていない。

しかしよくよく考えてみれば、この物語上ででジョイは7年間も監禁され、(おそらく数多くの強姦を経て)望まない妊娠・出産を経験している。それは、私たちからすればかなりエグくて、『悲しい』出来事だ。普通の映画なら、その感情を最大限に利用したがるものだ。

実際僕は、悲しいシーンがくることを予想していたし、なんなら描かれる前から、既にジョイは悲しい存在として評価されてしまっていた。彼女がどう感じるか、どう描かれるかということに関わらず、事件とその脱出劇を見て、彼女はもう悲しい存在であると、既に評価されてしまっていたのだ。

だが、実際に彼女が悲しい存在としてことさら描かれることはない。それは、ジャックがそう思っていないからだ。ここに、僕とジャックの間にある差・違いを見た。僕にとってジョイは初めから悲しい人だった。しかし、ジャックの中ではまだ未評価であった(これは捉え方の違い、とかいう問題ではない。)

もうこのことが、僕は強烈に、衝撃的だったのだ。こういう強姦とか監禁とかそういう事件を目の当たりにすると、社会化された僕らは、社会がその事件を悲しいものだと評価している通り、悲しいものだと評価してしまう。

つまり僕らは、感情すら、既に評価されたものの中で受け取ってしまっているということだ。そしてそのとき、ジョイはひとりの人間から、既に評価された、悲しい被害者の位置に立たされてしまう。その事件に対し、主観的な、ジョイとしての評価を下していいのは、ジョイだけであるはずなのに。

このような『未評価な地点』が僕の中ではほんとうに、強烈で、激しい衝撃だった。こうじゃないんだ、と思わされた。
感想としては以上。まあ長々と書きましたが単純にジャックかわいい映画でもあるので、ほっこり楽しめます。以上!

 

 

雑記
  • @MaximoNelson49 これに関連して、『スノーピアサー』って映画は良かったです。くっそアジア人顔した韓国人俳優がかっこよかった。カッコいい=西洋人の顔、という枠組みが崩された感。
  • @MaximoNelson49 あと『何者』の宣伝文句に「青春が終わる」ってあって、なんか切ないようなすげえざわっとした感じがあったんすけど、良く良く考えれば青春したいならすればいいだけの話だし自分に対して(殺すぞ…)という気持ちになりました。
  • また、小説を書くという行為についても、思うところがある。今まで僕は小説を書くとき、小説らしきものを目指して書いていたような気がする。しかし、そんなあらかじめ決められた枠組みを目指して何かを書く必要はない。僕は書くという行為を通じて何か成したいところのものがあり、それを十分成すことができれば書く行為なんてのはそれで十分だ。ゆえに、僕は小説を書く必要はない。もしくは「小説」を書きたいと自覚した上で書く必要がある。
  • あと、僕が会社の一員なのではなく、僕の人生の一部に会社がある、とか。

絶望と責任について

どうもmaximonelson49です。今回は絶望と責任について、書くよ。(若干マッチョな話です)

 

仕事ができない話

のっけからこんなんで恐縮なのだが、僕は仕事ができない。どういうことかというと、僕はSEやっているのだけど、プログラミングがまあ嫌いだ。元々文系の学部を出ている人間だし、なんかもう、プログラミングするって発想がもう頭にない。
ただまあ、嫌い嫌いといっても僕はSEだし、働いているのは金融系の現場だ。一般に金融系の現場は忙しいと言われていて、沢山プログラミングしなきゃならない。
特に去年の暮れは繁忙度が高く、1日16時間くらい働くのが続いた。(朝7時から夜11時まで働いていたので、長時間労働のことを「セブンイレブンで働く」と冗談にしていた。)
まあ、日に16時間特にやりたくない仕事をするってのは、あんまり健康に良くなさそうだ。かつ僕はメンタルの弱い人間だし、まあそりゃ心身の状態を悪くする。具体的には、以下のような症状が出た。

  • 日中冷や汗が出る
  • 顔がほてる
  • 涙が出てくる
  • その他メンタル的な症状

んで、この中でとりわけ辛かったのがメンタル的な症状だ。パニック状態に入ることがたびたびあり、パニックになったが最後何も考えられない、それが辛かった。


「パニック」と言うと医学的なアレと考える方もいるかと思うが、そういう医師の診断がおりたものではない。じゃあどんな状態なの、っていうと、目の前のタスクを解消できない、と思ってしまい、仕事をしようとしても、全く頭に入らなくなってしまう、そんな状態。作業が終わらなくて、どうしようどうしようと慌てて、不安なだけで、ひたすら資料をめくったりし続け、何もできなくなってしまう。
次第に僕は、何故自分はこんなにパニックになるのかということを考えて、精神病だった祖父(血縁関係にはない)のことを思い出して、だから自分は精神病ぽいんだとか、自分もそのうち精神を病んでああなるんだとか、仕事中に考えていた。自分は先祖代々の精神病で、それはもう変えようもなくて、だから今パニックになって仕事が手につかなくなってしまっている。
つまるところ、僕はパニックになりながら、「自分にはこの現実をどうすることもできない」という絶望感を抱いていた。
この「どうすることもできない」って感覚が、いわゆる絶望感なんだな、と今になって思う。

 

絶望のメリット

ただ、今こうして時間をおいて振り返ると、辛かったあのパニックや絶望感にもメリットがあったな、と思うところがある。
何かっていうと、絶望している間にかぎり、僕はパニックを理由にタスクをこなす責任から逃れられた。パニックになっちゃってるんだから、できなくてもしょうがないよね? と思えたのだ。まあ客観的には全然逃れられていないのだが、少なくとも主観的には、できなくてもいいやと思えた。
僕はパニックになっている間ずっと、自分は頭がおかしいからしょうがないとか、祖父も精神病だとか、そういう、自分のメンタルが弱い要因を考えては、自分がパニックになってるのは「どうしようもないもの」「動かしようのないもの」とし、故に許され、責任から解放されうるのだとしていた。
これは「自分が仕事を終えられないのはパニックによるものであり、そのパニックは自分が過去に受けた仕打ちからくるものである。私は被害者であり、このものごとの責任は加害してきた他者にある。私は許されるべきだ」ということだ。

まとめよう。

僕は出来ないこと(仕事)にぶつかる度、パニックを起こした。そのパニックは、僕の祖父が精神病だったり、そんな祖父と幼少期を共にした経験からくるものなのだと考えた。ただ、パニックを起こすことで僕は外部に加害者を措定し「私は被害者である。故に仕事が出来ないのはしょうがない。」と考えることができた。そうして、主観的な面で責任を逃れた。
自分には過去に動かしようのないもの(祖父)があるから、この状況をどうすることもできないのだと絶望していた。
僕は、現実に対応する責任から逃れるために、過去に原因を用意して絶望したのだ。

 

 (さて、下記マッチョなので注意。)

絶望と責任のトレードオフ

 ここまででは、僕のパニック、そしてその真の狙いを書いた。というのも、僕は責任から逃れるために絶望していた。

そしてこのときある推測(思いつき)が可能である。それはつまり、『責任を逃れるために絶望するなら、その逆もまた然りであり、つまり絶望と責任はトレードオフなんじゃないか?』 ということだ。

 もう少し詳しく書く。

絶望することで責任を負わずに済む。これは逆もまた然りで、責任を負って現実に対応すれば、絶望せずに済むということでもある。「僕にはこの現実をどうすることもできない」というのが絶望なら、責任をとって「この現実をどうにか」しようとすれば、絶望しない。

 つまり、絶望と責任はトレードオフなのではないか。過去に絶望することで現実の責任から逃れることができ、逆に責任をとって現実に対応することで私たちは動かしようのないことに対して絶望せずに済むのではないか。

(下記12/23追記)

ここ、責任についての補足が必要だ。僕の言う責任と、世間の言う責任は、たぶん意味合いが違う。世間的には「やりたくないことだけどそれはしょうがないのだと諦めて引き受けること」くらいのものだと思うが、僕が言いたいのは、自分の人生に対する責任のことだ。僕は僕の人生について、僕自身を幸福にする権利を持っており、そして自分自身を幸福にする責任は僕だけが持っている。自分に対して責任を追うのは僕だけなのだから、その責任を果たすことはとても正当な権利なのだ。だから、自分の人生に対して責任を放棄するような諦念を、あなたは受け入れなくても良い。

だから、そうか、『絶望と責任のトレードオフ』とは、『他人の責任から逃れるために絶望した僕は、その絶望から逃れるために自分の人生に対して責任をとる』ってことなのだ。

(追記おわり)

(※この「責任をとる」は正直マッチョな考え方なので、この投稿の最後に補足しておきたい。)

 

 

最後に

以上のように、絶望と責任はトレードオフなものなんじゃないかな? というのが今回の趣旨だ。以前の僕はよく絶望していたし、それによって責任を逃れようとしていた。ただその一方で、責任をとることで絶望から逃れることも、できるだろうって話だ。

こういうことを考えられるようになってから、まあ実際、僕は仕事でパニックになることがかなり減った。つーか最近は無くなった。仕事がきついときに一人でパニクらず、相談するとか、断るとか、そういうことができるようになった。

まあこれで投稿のメインどころは終わりで、良かったねーという感じである。ただまあ非常にバツが悪いのだが、僕はこの投稿の本質的な問題点について答えていない。

それは『かつてパニックになっていた頃の自分がこれを読んで救われるか?』という問題だ。たぶん救われないし、このマッチョな論に、だから自分はダメなのだとか、そんなこと言われたって無理なものは無理だ、としか思わないだろう。僕の言っている『絶望と責任のトレードオフ』的な態度とは、絶望か責任か、ということに対して“僕が”選択可能であるということであり、かつてそれを選択できなかった(絶望するしかなかった)自分には全然通じない論なのだ。『絶望と責任のトレードオフ』という態度を一般のものとして提出する以上、むしろここで本当に考えなきゃいけないのは、その選択の不可を乗り越える一般的な方法だ。

ただ残念なことに、そこまでは考えられていないのが現状である。なので、僕個人が絶望のかわりに責任を負うことにしたきっかけ的なものを書いておいて、とりあえずこの投稿を終える。

なぜ責任をとることにしたのか? というと、それは結局絶望してるのが辛かったからだ。

自分は常に被害者で、自分の人生を他人に阻害され続けて、どうすることも出来ない、人生はこんなにも不自由だ、そうやってずっと被害者でいることがアホらしくなった。かわいそうで人生台無しにされた被害者ではいたくなかった。

自分の人生は自分で勝手にしたいし、そして人間にはそれが許されるべきだから、自分の現実に対して責任をとることにした。

なので、どうしたら現実を変えられるのか考えて、対処していった。

 

さて、それでは本当に最後に、いくつか書きそびれたこととかを以下に列挙して、終わる。

 

・現実に責任をとる、という言葉についてだが、これは必ずしも困難に立ち向かうということではない。自分の人生を被害者で終わらせないために、したくない困難ならさっさと尻尾巻いて逃げることも含めた、自分の人生への責任のことを言ってる。ただ、本当に鬱々としているときって大概、逃げることすら難しいものだ。

・絶望のメリット、についてだが、『責任から逃れるために絶望する』というと大げさなものでなくても、例えば仕事でちょっとミスをしたとき、言い訳的にそれが逃れられなかった理由を考えたりすることがあると思う。その根っこにあるのは「(どうしようもない理由があるから)許してほしい」という感覚だ。

・また、こういう「(どうしようもないから)許してほしい」のやっかいなところは、許してもらうことが目的になるがために、出来なくても当然な状況に自分を置きたがるってことだ。つまりそれが被害者的な立ち位置であり、自ら被害者になることで誰かの許しをもらおうとしている。

・「生きていることが許されない」という感覚とともに生きている人はそれなりにいると思うが、誰かに許される(認められる)ために生きる、というのは当然苦しい。誰かに許されずとも生きてて良いのが普通だし、まあそれが人権というやつなので、人権について学ぶことは生きやすさに繋がると思う。

・あとこの話って、責任範囲をどう持つか、ってことも現実問題大切だよな、と思う。

・義務としての責任と、自由としての責任がある。