クソな夫婦喧嘩を「論点」の概念から考える。
どうもmaximonelson49です。今回は夫婦喧嘩と論点について気づいたことを書くよ。(この話、面白いと思ってるのでいくつかの連続した記事にします。)
よくある喧嘩のモヤモヤ
こういう話を聞くたび、すげーモヤモヤする。
夫がリビングに私物を置いて片付けない。「片付けて」と言うと、「仕事で疲れてる」と言い返される。なので仕方なく、自分が片付けることになる。
「言い方が気にくわない」とか「今忙しいから」などのパターンもあるが、これ系。
何がモヤモヤすんのかって、なんというか、こういう言い返しで議論を終わらせようとすること自体もモヤモヤするが、それに加えて、この言い返しで矛を収めてしまうこととか、その言い返しがまかり通る、この雰囲気自体にモヤモヤする。なぜそれで議論が終わる…となる。
そこで、なんで議論が終わるのかと考えてみるたんだが、たぶんこれ妻側は「それも分かるなあ」となっちゃってるんだと思う。
共同のスペースを汚くされると困るから片付けて欲しい。が、夫が疲れてるのも分かる。そうなると夫の言う『疲れた』に対して言い返せなくなり、議論が終わる。たぶんそういう状態にある。
僕はこういうのに対して「あーなるほどねー」と思う。ただその一方で「いやそれは違くないか?」とも思う。というのは、「部屋を片付けろ」に対して「疲れてる」と返すのって、端的に言って反論になってないからだ。
ちょっと考えてほしいんだが、まずここでは「疲れてる」という主張が理解できるから「部屋を片付けろ」が取り下げられている。ただこれって例えて言えば、「1,2,3の中で1が1番小さいよ」という主張に対して「いや3が1番でかいでしょ」と言われて(たしかに)って思うから「1が1番小さい」っていうのやめよ…みたいな話だ。例え疲れてるって分かっても、「片付けるべきなのではないか?」という論の正当性はなんら傷つけられていない。それは、3が1番大きいからといって、1の小ささに疑問がつかないことと一緒だ。
なので、夫の『疲れた』に対して妻は『片付けて』を取り下げる必要はない。だがここで注意してほしいのは、上記の論が通るとき、『片付けて』も『疲れた』の反論にはなり得ないということだ。
つまり僕がいいたいのは、どちらかが意見を飲み込むことは変なことですよ、ということだ。だから大切なのは、「疲れてる」と「片付けて」のどちらも自分自身の問題を飲み込むことなく、両者円満にいられるような落としどころってどこだろうね? とふたりで考えることだと思う。そしてそれは、ちょっと考えれば案外簡単に解決できる問題だ。
(まあこの例だと、夫は自分の義務を放棄しただけなので妻は一方的に求めてもよいのだが。)
さて以上のような話って、まあ度々確認されてきた話ではあると思う。それをなぜわざわざブログにしてるのかというと、これが僕の小説やらとリンクする問題であり、これを自分の言葉でまとめておく必要性を感じたからだ。(こっからいつもみたいに、わっけわかんねー言葉で話します。)
論点について
前置きが長くなったが、ここからいつもみたいに書く。
まず冒頭のエピソードを語るにあたって、僕は「論点」という概念を持ち出したい。一般的な意味としては論ぜられる点(そのまんま)を指すと思うが、ここでは「解決されるべき問題点」ってくらいの意味だ。
んで、なぜ論点なんて概念を持ち出したのかというと、議論というのは基本的に下記のフェーズを経ると僕が思ってるからだ。
- 「論点の設定」をするフェーズ
- 「論ずる」フェーズ
まあ会社の会議とか思い浮かべて貰えばいいと思う。この会議では何を解決するか? を議論の参加者間で共有し、それから実際に語り始める、って流れがあると思う。
このフェーズの意識がなく、論点の設定がされていないと、議論はうまくいかない。何故なら何かの問題に答えを出そう、としているとき、解く問題の違うやつがいると、もはや答えのだしようがなくなってしまうから。または、話してる途中で気になった方向に議論が進んでいってしまい、結局何がどう決まったのか分かんなくなってしまう。飲み会の会話みたいな感じだ。
以上は『論点の設定をしてないと議論が成り立たないだろ』という成立条件の話だが、その論点が価値あるものか? について考えることは議論の質自体にも関わる。
以上の2点(成立条件と質)から私たちは、議論の際には論点を設定するフェーズを用意する必要がある。
で、
ここで、先のエピソードに戻ってみる。このエピソードでは妻が『片付けて』という論点を提示し、その返しとして夫側から『疲れた』という論点が提示される。その後何故か『疲れた』だけが論点として残り、そしてまた何故か、議論が終わっている。
これ、上のフェーズに当てはめると、どうなるか。
どうなるかというと、論点の設定もできてないところにいる。これ本来なら、お互いがお互いの論点を提示しあったところで、ここから『では今話し合うべきところはどこか?』と論点のすり合わせに入り、論点が定まったところで議論が始まるはずだ。しかし、そうはいってない。
仕事上の会議に例えてみると、さらに分かりやすいだろう。
取引先と集まって挨拶とかして「いやはやコレコレにつきましては…」と営業さんが言ったと思いきや取引先が「今日はアレコレの話をしましょう」と言い、何故か皆黙り込み、そして解散となる、みたいなもんだ。頭がおかしくて会社が潰れる。
だから僕は激しくモヤモヤした(だって議論始まってもないのに終戦してる)。そこに問題があるのなら決着つくまで議論してほしいと思う。
(というかまあ、これがまかり通るのって興味深くすらあるので、そこらへんもまとめて記事にする。)
最後に
以上のように、議論にはふたつのフェーズ『論点設定』『議論自体』があり、議論の設定をちゃんと行うことで議論は成り立ち、質も高いものになる。
たぶんこれって、わりとみんな会社の先輩などから教えられていると思う。ただここで重要なのは、これは仕事で先輩からそう教えられたから仕事上そうする、という質のものではなく、議論の構造上それが必要とされるってことである。
論点の設定について、仕事ではできるが夫婦関係ではできないって人いると思うが、これは議論の構造から必要なものであり、お仕事の決まり事だから、ってわけじゃないところを理解してもらえるといいかなと思う。
さてこの投稿は、これで終わりである。本当はもうちょい広めの話として記事にしようかと思ったんだが、なんだか実質5本分くらいの文量になりそうだったので、一記事にすんの無理あるなとなり、ここでやめた。
連続する記事としては、こんな感じ。
- 人の権利としての論点設定(まだ)
- 『疲れた』型の反論、誤謬(まだ)
- 正しい反論の仕方(まだ)
- 夫婦喧嘩に反論は必要か?(まだ)
作ったら、リンクで飛べるようにする。
では最後に、上で書いたような考え方を扱ってる書籍のリンクを貼ったり、書きそびれたことを書いて終わる。
●いい本ら
- 作者: ニール・D・ヒックス,Neill D. Hicks,浜口幸一
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映画の脚本について書かれた書籍だが、僕の考えることはだいたい全てこの書籍と小説書いてた経験による。ので一応示す。良い本です。
名著。
会議&打ち合わせの時間を半分にする 論理的な伝え方 (角川書店単行本)
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あんまりいい本じゃないけど読みやすくはある。ちょうど会社で『この本の解説で発表して』みたいな仕事をもらった、という偶然に乾杯しつつあげとく。
●書きそびれ
・まあ『疲れた』は単純に議論もしたくないということだろうから、残念だがこの投稿で当初のエピソードを解決したりするのはちょっと無理がある。
以上。